みずがめ座
ありふれた悪へのまなざし
他者との交わりにおいて悪は現れる
今週のみずがめ座は、「不合理ゆえに我信ず」という信念のごとし。あるいは、この世の中にある悪に対する感度を上げていくような星回り。
チェコの神学者で、ソ連やマルクス主義との対話を積極的に行ったことから、他の神学者たちに「赤い神学者」というあだ名までつけられたフロマートカは、自分の自己決定を大切にしていくべきか、自分の外側になにか人生の基準となるものを求めていくべきかという問いに対し、後者の立場をとるのがキリスト教ではあるが、それは目に見えるもので保証されるようなものではないのだと、たびたび述べていました。
むしろ、そういう目に見えてはっきりしているものや、理屈で説得できるようなものに従っていく行為こそが悪の根源であり、それは自分と他者との関係において現われるのだと。
「悪の力は神がいるときにこそ気づかされる。聖書を読んで信仰を持つ者は、悪がいわゆる宗教的分野から遠く離れた現象において見られるのではないこと、神に対する反抗は宗教のローブをまとい、聖なるマントに袖を通していることを知っている」(『人間への途上にある福音』)
この「神に対する反抗」とは、人間に対する反抗であり、自己への反抗と置き換えることもできますが、要するにここでは、私たちの日常にはいかに悪が充ち溢れているか、そしてだからこそ、悪や悪意が現われてくる構造に敏感にならなければならないということが説かれているのです。
17日にみずがめ座から数えて「信念」を意味する9番目のてんびん座で満月を迎えたところから始まっていく今週のあなたもまた、かつてフロマートカがそうしたように、自分の目を曇らせてしまうだろう陶酔からまず断ち切っていくべし。
<世界>の侵入に対する敏感さ
長く生きていると、時おり天災や戦争を通して、普段じぶんが属していると思っている社会の外側から、世界が侵入してきてはこれまでの秩序を乱したりひっくり返してしまうことがありますが、そうした畏るべき力のことをかつてはどの民族も「聖なるもの」と呼んでいました。
例えば、マレー半島の先住民は聖なるもののなだれ込みを促すものとして近親婚をタブー視するだけでなく、同様の意味で、猿に不用意に笑いかけたり、人間を相手にするように話しかけることを禁じましたし、他にもある種の虫や鳥の声をまねることや、鏡に映った自分を見つめすぎたり笑いかけたりすることもタブーと見なしていました(レヴィ=ストロース『親族の基本構造』)。
それらには、人間と自然とを隔てることで人間世界を成り立たせている壁を、溶解させるだけの魔力が潜んでおり、自然界の過剰な力をはらむ「呪われた部分」に他ならなかった訳です。
ただ、今のみずがめ座にとっては、そうしたひたひたと人間世界に近づいては翻弄してくるマージナルな存在や領域は、単に迷信として切り捨てるべきものではなく、むしろぜひとも接近しみずからの手で触れていくべきものなのだと言えるかも知れません。
みずがめ座の今週のキーワード
「呪われた部分」への自覚を促す