みずがめ座
不惑の顔
そんなに惑っちゃダメですか?
今週のみずがめ座は、孔子の「不惑」のごとし。あるいは、無限とまでは行かずとも、いくらかの可能性を自分に与えていこうとするような星回り。
古代中国の賢者である孔子の教えを伝えた『論語』のなかで、最も有名かつ最も誤解されがちな1文は「四十にして惑わず」でしょう。
「われ、十五にして学に志す」から始まり、30、40、50、60、70と各年齢ごとのさまざまな境地を言い表した文言が並んだうちでも、たかが40歳で「自分はもう惑わない」などという孔子はよほど特別な人か、リアリティのない綺麗事だと感じる人も多いのではないかと思いますが、どうも「惑」という漢字は孔子の生きた時代にはまだ使われておらず、「或」という字がのちに「惑」へと入れ替わってしまったそうなのです。
では、「不或」とはどういう意味なのか、ということになる訳ですが、漢字学者の白川静氏によれば、「或」とは「境界」を表す言葉で、ある区間を区切ることを意味します。つまり、「不或」とは「区切らず」「限定せず」という意味になる。
これは例えば、40を過ぎてもう若者とは言えなくなると、人間どうしても「自分ができるのはこのくらいだ」とか「こんな性格だから仕方ない」とか、それまでの経験だけで狭い枠を囲ってその中に収まりがちになる訳です。そこで孔子が言おうとしていたのは、「四十になったくらいで、自分を限定しちゃいけない。むしろここから自分の可能性を広げる努力を意識的にしていかなくゃいけない」ということなのではないでしょうか。
同様に、12月29日に拡大と発展の星である木星が、みずがめ座から数えて「有形無形の資産」を意味する2番目のうお座へと移っていく今週のあなたもまた、改めて「自分にはまだまだできることややってみたいことがあるはず」という前提で2022年を展望してみるといいかも知れません。
<慎み深い露出>としての顔
かつては「40になったら、自分の顔に責任を持て」ということがよく言われてたものですが、これはそれだけ顔というものが、そのときの生活や生き様を正直に映し出す‟厳しい鏡”のようなものと見なされてきたということでもあります。
例えば、哲学者のレヴィナスは「顔はおよそ正直なものだが無防備であり、慎み深い露出を行っている、本質的に<貧しい>ものである」(『倫理と無限』)と述べていますが、ここで言われている貧しさとは、<傷つきやすさ>と言い換えてもいいでしょう。
ただし、私たちはふだんそうした素顔を、上司とか友人とか恋人などの他者から意味付けられる肩書きや役割を使って覆い隠しており、あまりにそれら場面ごとに使い分けられる仮面と素顔とを癒着させてしまっているようにも感じます。
今のみずがめ座においては、ある意味で、そうしたみずからの貧しさや傷つきやすさを露出させていくことができるだけの開き直りこそが求められているのだと言えるでしょう。
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