みずがめ座
風狂の世界の住人
芭蕉と旅
今週のみずがめ座は、「旅人と我名よばれん初しぐれ」(松尾芭蕉)という句のごとし。あるいは、運命とは「突き抜ける」ことで初めて終わらすことができるのだと、改めて感じていくような星回り。
弟子たちの元を旅立つ由に、餞別として開かれた宴の席で披露された掲句。はじめて読んだ人にとってすれば、「定めない冬空のもとをあてどもなくさすらいゆく孤独の旅」といった作者の旅の前途を思い描くかもしれません。
「つらいなあ」「さみしいなあ」といった沈痛悲涼の情を作者のうちに読み取ろうする訳ですが、「しぐれ」の伝統と「旅人」とに並々ならぬ特殊な感情を寄せる芭蕉一門ですから、当然それではあまりに短絡な考えと言わなければならないでしょう。
「しぐれ(時雨)」はそもそも「時に降る雨」などの意で、室町時代の乱世においてはその定めなさに人生の無常が託された訳ですが、芭蕉の生きた江戸時代には「時雨」はむしろ、忘れていた人生の真実を告げ知らせてくれる風狂の世界の代名詞であり、「旅人」となることは日常的現実から離脱してそうした風狂の世界の住人となることを指したのです。
つまり、ここには明るい風狂の旅の前途にはずむ心おどりがある。同様に、今週のあなたにもまた、どこかいきいきとした心の昂ぶりが芽生えていきそうです。
一休と禅
風狂の人といえば、室町時代の僧・一休宗純についても触れない訳にいきません。
禅語録の『無関門』に「仏に会うては仏を殺せ、鬼に会うては鬼を殺せ、親に会うては親を殺せ」という言葉がありますが、この非常に苛烈な言葉こそが「風狂」の原点であり、同時に一休の始発点でありました。
つまり、一休という人は生涯にわたってこうした「風狂」を貫き通していったのです。
彼は善をなす者はつねに悪を隠しているんだと考え、実際に「仏とは何でしょうか?悟りとはどういうものなのですか?」と聞かれれば唾をはきかけ、墓前で読経を頼まれれば尻をむくって糞をひって帰ってくるといったことを度々行っていたそうです。
そうすることによって、自分のなかで眠っている悪、隠された悪を顕わにし、切り捨てていった訳です。
彼が遺した「自賛」という詩の冒頭には、「風狂の狂客、狂風を起こす」という一句がありますが、これはそこまで突き抜けるのでなければ僧としての本分を全うすることはできないのだというひとつの意志表明でしょう。
その意味で、今週は自分なりの「突き抜け」方を態度表明していくいい機会なのだともいえるかもしれません。
今週のキーワード
一休宗純『狂雲集』