みずがめ座
仮面とその背後を同時に見る
舞台の上での逡巡
今週のみずがめ座は、舞台で上演中に一瞬素に戻った役者のごとし。今月はじめに表面化していた空気感が、ここで再び立ち現れてくるでしょう。
それは夢見ていたい夢の世界から半ば醒めてくるような感覚。堅固に感じていた現実がぐにゃりと軟化してしまうような心許なさ。
しかし、今度は大きく取り乱すようなことにはならないはず。演じている役柄がたとえ幻想だとしても、幻想が必ずしも誤謬とは限らない。
むしろ誰かの願望の投影なのだと、自然と受け入れることができそうです。
では素に戻った状況で、あなたは一体どう振る舞えばいいのか? 今週はそこに選択の余地が出てきます。
何も気付かなかったふりをして再び役柄に戻り没頭するか、意を決して、身近な役者が一体どんなつもりで自分の役柄を演じているのか、その気配を察してみるか。
明晰夢を見ている時のように
橋龍吾という詩人が「天職」という短い詩を書いているのですが、ちょうど先の2択の後者―「気配を察してみる」とはこんな感じかもしれませんね。
『天職』
あの三流の付き人は、 一流の役者の巧妙な芝居かもしれない。
自分の役柄にのみ没頭しきっていれば、こうした問いは出てこないでしょう。
けれど、人生の大半はそうした没頭のうちに過ぎていくことを考えれば、今週は夢の中で夢を見ていることに気付いた明晰夢に近い状態なのかもしれません。
つまり、目前にある違和感をはっきりと自覚するためのプロセスなのだとも言えます。
そしてそのプロセスは、やがて身近な演者の演じている仮面とその素顔、その二重の現実へと思い至るでしょう。
仮面しか見ることのない人間に災いあれ。背後に隠れているものだけをみる人間に災いあれ。真のビジョンをもつ人間だけが、たった一瞬の間に美しい仮面とその背後の恐ろしい顔を同時に見る。
その額の背後にこの仮面と顔を、自然にはいまだ知られぬかたちで統合するものは幸いである。そんな人間だけが生と死の二重の笛を威厳をもって吹くことができるのである。(『石の庭』ニコス・カザンツァキ)
今週のキーワード
役を演じるということ