
さそり座
正しさへの依存を断ち切る

宗教の解体者としての親鸞
今週のさそり座は、『歎異抄』での親鸞と唯円との問答のごとし。あるいは、胸の奥に秘めてきた本音を思いきって誰かに伝えていこうとするような星回り。
1300年頃に親鸞の弟子であった唯円が書きのこしたとされる『歎異抄』には、親鸞と唯円のあいだで交わされた次のような問答が出てきます。
親鸞「俺の言うことを何でも聞くと言うんなら、人を殺してみろ」
唯円「いや、自分にはそういう器量はない。人ひとりだに殺せない」
親鸞「そうだろう、人間というのは契機がなければ一人の人間だって殺せないんだ。しかし、契機があれば百人、千人、殺したくないと思っていても殺すこともあるんだよ」
この「契機」という言葉は、「因縁」とか「宿業」、「運命」といった言葉にも置き換えられます。ここで親鸞は人の生き死について、「〇〇であるべき」とか逆に「××してはいけないのではないか」といった倫理と結びつけるような言い方を一切していません。
むしろ、父と母が出会って子が生まれるのも偶然なら、本人がどう死ぬか、はたまた、誰かを死なせてしまうかも知れないといったことも、親鸞としては一切が「偶然の連鎖」であり、いい悪いの問題じゃないんです。だからこそ、殺すことや殺せないといったことを倫理から切り離して、「死」というものを社会生活と連続したある意味で無色透明なものとして捉えていくところが、親鸞にはあったのではないでしょうか。
そして、それは一足飛びに「死んで浄土に生まれ変わる」ということを主張した、他の浄土思想家ともう180度違うところだったように思いますし、仏教でずっと言われてきた前世とか来世といった信仰も究極のところで否定するような恐るべき力をも秘めていました。
4月5日にさそり座から数えて「突破」を意味する9番目のかに座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、みなが信じ込んでいるような幻想や神話について、いっそ空気を読まずに斬り捨てていくべし。
啓蒙主義の正体
第一次トランプ政権が誕生した直後、急激に売上をのばしたことで話題となったジョージ・オーウェルの小説『一九八四』には、思想犯罪を取り締まる「思想警察」が出てきますが、これはフィクションであるものの歴史的リアリティに根ざした概念と言えます。
例えば、17世紀後半から18世紀にかけてヨーロッパでおこった啓蒙主義では、キリスト教は迷信として攻撃された訳ですが、これは中世初期にカトリック教会が西欧各地に根付いていた土着的な信仰や風習を迷信として撲滅しようとしたことにそっくりです。
どちらも「正しい思考様式」を定め、それから外れる思想を異端や迷信として排除し禁圧しようとした訳ですが、こうした身体や財産ではなく思想を冷酷に改変し、支配しようとする権力はいつの時代にも存在してきました。そして、啓蒙主義者たちの人間は理性的存在として完成されうるという議論は、一見すると進歩的で理知的なものに見えますが、じつは人間は教育によっていくらでも改造できるという『人間機械論』のような思想とセットでした。
18世紀フランスの思想家ルソーはよく啓蒙主義者と勘違いされがちですが、彼はむしろパリの啓蒙主義者たちという「思想警察」によって監視され迫害された、真の意味で“気付いていた人”だったのです。
今週のさそり座もまた、いま自身がなんとなく受け入れてしまっている“思想”がどこに由来するものなのか、改めて確認してみるといいでしょう。
さそり座の今週のキーワード
身近な「思想警察」をあぶり出す





