おとめ座
絡みあういのちと時間
複数であり一つでもあるいのち
今週のおとめ座は、「一つの根の二つの幹」の図を自分の中に描き直していくような星回り。すなわち、自立でも依存でもない共生のカタチを、自分なりに模索していくこと。
稀代の釣り師であり食通としても知られていた作家の開高健は『食の王様』のなかで、食欲・性欲・権力欲の3つをヒトの「根なるもの」と呼び、「たがいにからみあい、かさなりあい、ときには反撥しあ」いながらも、「おたがいに菌糸のようにからみあい、あたえあい、奪いあい」ながら無数の変奏を生み出さずにはいられないのだと述べています。
冒頭の「一つの根の二つの幹」という言葉も、そうした文脈の上で、食べることと交わることの表裏の関係を指し、それを文学的な直観によって人間を「いわれなく解放してくれる劫初のもの」とまで言い切ります。
こうした開高の直観は、いのちの根源は果たして1つなのか複数なのか、という問いにも通じ、また今のおとめ座の人たちにとっても、いかに生きていくべきか、というテーマを巡って力強い示唆を与えてくれるでしょう。
自分と栄養源との区別をいったんカッコに入れ、忘れられた内なる野生に目覚めていくとき、私たちは「自立か、依存か」「支配か、従属か」といった二者択一的な枠組みを超えた、つながりの中で生きる共生的視界を開いていけるように思います。
セネカの問いかけ
そうしたまなざしを開いていくための呪文があるとすれば、それは「私のいのちは誰のためのものか?」といった文言になるかもしれません。
そして、こうした言葉に触れる時、思い出されてくるのが教え子であるネロに自殺を命じられ最後を迎えたローマの哲人セネカのことです、彼の『人生の短さについて』という著書の19節の終わりを抜粋してみましょう。
「何かに忙殺される者たちの置かれた状況は皆、惨めなものであるが、とりわけ惨めなのは、自分のものでは決してない、他人の営々とした役務のためにあくせくさせられる者、他人の眠りに合わせて眠り、他人の歩みに合わせて歩きまわり、愛憎という何よりも自由なはずの情動でさえ他人の言いなりにする者である。そのような者は、自分の生がいかに短いかを知りたければ、自分の生のどれだけの部分が自分だけのものであるかを考えてみればよいのである。」
確かに彼の言う通り、自分の時間は本来自分のものであり、自分の意志に基づいて使われるべきですが、同時に、自分以外のために時間を使うということを自分の意志で決められる時、それ以上の豊かさが得られることもあるのではないでしょうか。
今週は彼自身がひとつの問いかけのようでもあるセネカに重ねつつ、時間の使い方の配分を見直してみるのもいいでしょう。
今週のキーワード
「おたがい菌糸のようにからみあい、あたえあい、奪いあい」