おうし座
鬼気迫るとき
食生活の喩え
今週のおうし座は、『立ち歩く逢魔が時の一葉かな』(中川欣一)という句のごとし。あるいは、小手先の手腕でなく、もっと生活の根底に横たわっているものを前面に出していこうとするような星回り。
「一葉」は桐一葉のことで、桐の葉が落ちるのを見て天下の秋の訪れを知る様子を表した言葉。そんな桐の落葉が路上に静かに横たわっていたところに、風が吹いて一葉が動き始めたというより、無風の中で不意に柄を立てて魂が宿ったかのようにつつつつと歩き始めたのでしょう。
作者はそれを「逢魔」と断じてみせたわけですが、まだあたりは明るいのに暗い感じの、どこか鬼気迫るような怖さ怪しさのこめられた一句です。たしかに真っ昼間でも、不意に不気味な静寂がやってくる瞬間というのはあって、その静かさのうちに目に見えないものがスッと流れていったのを感じとった作者の背筋の伸びた後ろ姿がなんとなく連想されます。
日本にも伝統的に上田秋成の『雨月物語』のような怪奇ものの作品はありますが、かといってボードレールのような悪や腐乱性を異様美にまで高めるような気風はほとんど出てこなかったように思います。ヨーロッパや中国が肉食や脂類の濃い味の食生活だとすれば、日本はあっさりとした菜食そのものである感じで、その意味で掲句のような作品は珍しい例外と言えます。
しかし、作者のごくわずかな作品群を見ていくと、一葉の句と同じくらいの鬼気を感じさせるのは最晩年の2、3の句くらいであり、それも病いを得て死の気配が濃くなったことが大きかったのかも知れません。
10月3日におうし座から数えて「自分なりのスタイル」を意味する6番目のてんびん座で新月(種まき)を迎えていく今週のあなたもまた、いつも以上にみずからの生き様の地の部分が仕事や働き方と結びついていきやすいでしょう。
命がけで突っ立った死体
この言葉は1960年代から80年代にかけて活動した暗黒舞踏の旗手である土方巽の、「舞踏とは何か?」という問いへの答えとして知られるものですが、どこか「逢魔が時の一葉」に通じるものを感じないでしょうか。
しかし、よくよく考えてみるとこれは実に奇妙な表現であり、そも命がけで生きることはできても、死体が命がけで突っ立つことはできません。死体である以上命は賭けられない。不可能なんです。つまり、これは答えがすんなり出せるような問いではなく、それ自体が屈折し矛盾した謎なのであり、それを通して今まで身体というものを自分がどういう風に切り取ってきたのかを浮かび上がらせる試金石として機能する言葉でもありました。
ラジオ体操や学校の体育教育で一定の規格を与えられた身体、西洋医学的に定義された健康をつねに基準にしている身体、あるいは、そういう通常の生存スケールで切り分けてきた身体ではない、異相や異界を孕んだ深層的な身体性。
土方巽は、おまえは馬だとか、おまえは奴隷であるとか、次から次へと言葉で誘導し、撹乱していくことで既存の身体位相を壊し、変容させるということをやっていった訳ですが、まずそうした根源的な問いかけがあって、その派生として踊りが生まれていったのです。
今週のおうし座もまた、すっかり社会に飼い馴らされるうちにスポイルされてしまっていた根源的な問いかけを自分自身に向けて、発破をかけていくべし。
おうし座の今週のキーワード
神経をピーンと研ぎ澄ます(バリ3状態へ)