おうし座
淵に立つ
惰性からの覚醒
今週のおうし座は、ある不眠女性の自問自答のごとし。あるいは、何を終わらせ、ケリをつけていくべきか、選択を迫られていくような星回り。
「眠れなくなって十七日めになる」という一文から始まる村上春樹の『ねむり』という短編作品では、夫も息子もいる平凡な主婦が、ひょんなことから不眠になったことで生活が一転していきます。
家事もこなし、趣味のプール通いも続けながら、眠らなくなったことで余計にできた時間を、トルストイの大長編小説『アンナ・カレーニナ』を黙々と読みふけることで潰しながら、彼女は不眠以前の暮らしを振り返っていくのです。
それでは私の人生とはいったい何なのだろう?私は傾向的に消費され、そのかたよりを調整するために眠る。それが日々反復される。朝が来て目覚め、夜が来て私は眠る。その反復の先にいったい何があるのだろう?何かはあるのだろうか?(中略)たぶん何もない。ただ傾向と是正とが、私の体の中で果てしない綱引きをしているだけだ。
一方で、彼女は次第に不眠以後の暮らしのおかしな点にも気付き始めるのです。それは、全く眠れないにも関わらず「私」の意識はどこまでも明晰であること。そして、体もちっとも衰弱しておらず、むしろいつもより元気なくらいであること。そうして覚醒し続ける中で、彼女はふと「死」について思い、こう自問するのです。「死ぬということが、永遠に覚醒して、こうして底のない暗闇をただじっと見つめていることだとしたら?」
ここまで読んで、もしかしたらと読者は気付き始めるはず。この作品に描かれている彼女の「日常」の方こそが「夢」だとしたら。例えば、彼女が何らかの事故か病気で昏睡状態にあり、まさに死の瀬戸際で何らかの「夢」を見ているのだとしたら、と。
3月4日におうし座から数えて「小さな死」を意味する8番目のいて座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、どこかでそうした彼女の置かれている状況と通底しているところがある様に思います。
断層に出逢う
人間も大地と同じで、幾層にも重なった地層によってできており、長いこと歩き続けていると突如としてはるか未知の地層の断面ががばりと露呈してくることがあります。
当然そこで、それまでとは何かが変わる。例えば、信州から10代半ばでほとんど家を追い出されるようにして江戸へ流れ着いた小林一茶は、40を超えてはじめて自分の中に眠っていたものが表面に出てきて、「秋の風乞食は我を見くらぶる」など読む者をギョッとさせるような貧乏句を作るようになりました。
こうした変化について藤沢周平の『一茶』では、一茶の世話役をしていた夏目成美(なつめせいび)に次のように語らせました。
これを要するに、あなたはご自分の肉声を出してきたということでしょうな。中にかすかに信濃の百姓の地声がまじっている。そこのところが、じつに面白い。うまく行けばほかに真似てのない、あなた独自の句境がひらける楽しみがある。しかし下手をすれば、俗に堕ちてそれだけで終るという恐れもある。わたくしはそのように見ました
そういうことは、誰にでもあり得るのです。今週のおうし座もまた、一茶とのやり取りの中で発せられた成美の言葉をよくよく胸に刻んでおくといいでしょう。
おうし座の今週のキーワード
句境がひらかれるか、俗に堕ちるか