おうし座
ゆるやかな連合態へ
死者との連帯
今週のおうし座は、『日盛や動物園は死を見せず』(髙柳克弘)という句のごとし。あるいは、個人的な生を超えて生きている“連帯”を取り戻していこうとするような星回り。
夏の太陽が最も力を増し、真上から強く照りつける時間帯である「日盛(ひざかり)」は、別の見方をすれば、最も影が深く濃くなる時間帯でもあります。
確かに作者の言う通り、動物園は動物の生態を見せる場所であるにも関わらず、その死体だけは絶対に見せません。つまり生態と言っても、人間が見ていて楽しい生態に限られていて、周りの楽しんでいる雰囲気を少しでも阻害する可能性がある瀕死の動物や死体などは人びとの死角へと隠され、知らぬ間に片付けられてしまうわけです。
それは人間の勝手な都合を自然に押しつけているということであり、そうした押しつけは当然ながら人間自身の身にも及んでいて、それは今や私たちの想像をはるかに上回るものになってしまっているのではないでしょうか。
死をないがしろにするということは、生そのものやその誕生を貶めることにもおのずと通じていきます。これは言い換えれば、「死のない社会」とはそのまま「生きにくい/生みにくい社会」でもあるのだということ。そして、8月というのは一年で最も死を身近に感じやすい時期でもあるはず。
その意味で、8月2日におうし座から数えて「社会性」を意味する10番目のみずがめ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、この機会に死者との連帯ということを改めて感受していきたいところです。
「アイデンティティ」から「エージェンシー」へ
哲学者のジュディス・バトラーは、私たちが後生大事に抱え込んでいる「アイデンティティ」とは、言説行為の繰り返しを通じて事後的に構築されたある種の“沈殿物”に過ぎず、こういう過程的なあり方を行為に先立つ「主体」と呼ぶのはふさわしくないとして、それに代わる概念を行為体とか行為媒体などと訳される「エージェンシー」と名付けました。
そこでは「主体が語る」のではなく、あくまで「言語が主体を媒体として語る」のであり、さらに「まったき能動性」でもなく、また「まったき受動性」でもない、言説実践が生起していく流動的で折衝的な「場」として、自分が自分であることを想定していこうとしている訳です。
となれば、そのような事態に「同一性(同じであることや一貫性)」を含意するような呼び名(自己同一性=アイデンティティ)を与えるのは極めて不自然であり、ひとつの「場」としての自分はさまざまな過去の記憶や未来への投影のせめぎ合いとして、きわめて流動的に成立していることになってくる訳で、そこには当然「死者」の入ってくる余地も大いにあるはず。
その意味で、今週のおうし座もまた、青ざめた金太郎飴のように終始一貫している自分自身を、複数の異なるそれの緩やかな連合態へとほどいていくことがテーマとなっていくでしょう。
おうし座の今週のキーワード
言説実践が生起していく流動的で折衝的な「場」としての<わたし>