おうし座
新たなシステムを立ち上げるべく
古きをあたらしく
今週のおうし座は、『とうふ屋が来る昼顔が咲きにけり』(小林一茶)という句のごとし。あるいは、ほんの些細なことにこそ揺り動かされていくような星回り。
作者は長らく江戸で貧しい借りぐらしを余儀なくされたあと、50をすぎてやっと故郷で自分の土地と家を持つことができた人。掲句はそんな帰郷定着の年に詠まれたうちの一句で、故郷の風物にあたらしい思いで、いきいきと触れている様子が伝わってくるようです。
向こうから「とうふーぃ、ごまいりー、がんもどきぃ」という、賑やかな売り声とともにとうふ屋がやってくる。ふと見ると、道ばたでは昼顔が白い花を咲かせている。それだけの句なのですが、いずれも夏の昼の暑苦しさをほんの一瞬忘れさせてくれる清涼剤のような存在だったのかも知れません。
それらがたまたま、重なった。1つだけならまだしも、一度に2つも重なると、それは何か特別なことのように思えてくる。そこが帰郷したばかりのふるさとならば、その思いは殊更でしょう。
50を過ぎた男が、そういう日常のなんでもない偶然に心躍らせる。これもひとつの成熟のかたちであるように思います。その意味で、6月29日におうし座から数えて「学習」を意味する3番目のかに座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、「何事にも動じない自分」を大いに切り崩していくべし。
どこでもない場所のまん中から僕は
掲句の作者は、いわば長年暮らしてきた江戸から自身を切り離し、故郷という座標系とあらためて共鳴しようとしていたのだと言えますが、ここで思い出されるのは、村上春樹の『ノルウェイの森』の次のよう一節です。
僕は今どこにいるのだ?/僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見回してみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人びとの姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。
ここでは「僕」は十分なリアリティを得ることができるほどの安定性を持たないまま、さながら幼児のようにおぼつかない足取りでつかまり立ちしているように見えます。
しかし、個体として不安定でいかにも未熟に見える「僕」は、同時に必死に周囲の座標系に共鳴し、浸透され、ぶつかり合いつつも、新たなシステムを立ち上がらせようとしているのだとも言えるのではないでしょうか。
同様に、今週のおうし座もまた、孤立純化したシステムとして硬直してしまうのではなく、そうした共鳴をこそ改めて心がけていきたいところです。
おうし座の今週のキーワード
共鳴からはじめる