さそり座
私であるとは何であることなのか
謎の深まり
今週のさそり座は、草薙素子の自問のごとし。あるいは、家系であれ歴史であれ、潜在的な<私>の在処をそれとなく追いかけ、思いを馳せていくような星回り。
『マトリックス』に多大な影響を与えた士郎正宗の『攻殻機動隊』の作品世界では、人間はほとんどがサイボーグ化され、身体は自由に付け替えのきく「義体」と呼ばれるものとなっています。
主人公で公安9課の現場指揮官で女性サイボーグある草薙素子(くさなぎもとこ)は、犯人との捕り物をめぐる一戦において義体が破壊されても、いつもの冷静沈着ぶりを保っているのですが、それでもストーリーが進む中で、ふと抱いた疑問をつぶやくのです。
私は時々『自分はもう死んじゃってて、今の私は義体と電脳で構成された模擬人格なんじゃないか』って思う事もあるわ
しかし、もしそうだとしたなら、もう死んでしまった「自分」とは、誰のことになるのか。また、そういう「過去の自分」と「今の自分」とはどういう関係にあるのか。あるいは、仮に「模擬人格」なのだとしたら、オリジナルの自分の記憶や嗜好や性格などはどこまで再現されているのだろうか。そして、そうした疑念がすべて真実だったとしても、「今の自分」が現にここにこうしているということは疑いようがなく、それはどうしてなのか。
これらはすべて、すぐに答えを用意することができないどころか、答えがあるかどうかさえ定かでない“謎”と言えます。この作品では、「ゴースト」「魂」「生命体」などと表現される存在者が世界の中に客観的に存在し、それが何らかの器に宿るといわば自我が生じるかのように考えられていますが、それは90年代初期という時代を考慮してもやや素朴に感じられます。
9月22日にさそり座から数えて「私以前」を意味する12番目のてんびん座へ太陽が移っていく(秋分)ところから始まる今週のあなたもまた、そもそも私であるということは何であることなのか、といった謎の感覚が改めて呼び覚まされていきやすいでしょう。
父母未生以前の自分
たとえば辻征夫の『春の問題』(1977)という詩作品では、私以前の私という問題に対する、近代的な基準と比べて極めておおらかな、つまり原始的な感覚がよく言い表されています。
また春になってしまった/これが何回めの春であるのか/ぼくにはわからない
人類出現前の春もまた/春だったのだろうか
原始時代には ひとは/これが春だなんて知らずに
(ただ要するにいまなのだと思って)
そこらにやたらに咲く春の花を/ぼんやり 原始的な眼つきで
眺めていたりしたのだろうか
原始時代の/原始人よ/不安や/いろんな種類の/おっかなさに
よくぞ耐えてこんにちまで/生きてきたなと誉めてやりたいが
きみは/すなわちぼくで/ぼくはきみなので
自画自賛はつつしみたい
よくよく考えてみると、自分のからだ一つとっても、どこまでが純粋に自分のもので、どこからが父母や先祖からもらい受けたものなのか、その境界線をはっきり定めることはできません。
その意味で、過去はすっかり消え去ったのではなく、脈打つ心臓の鼓動とともにつねにいまと共にあるのだと言えます。今週のさそり座もまた、自画自賛をつつしむ代わりに、「これは何回めの秋であるのか」としんみり酒を飲んだりすればいいでしょう。
さそり座の今週のキーワード
きみは/すなわちぼくで/ぼくはきみ