さそり座
ぐずぐずしつつ生きていく
責任とアイデンティティ
今週のさそり座は、「臣下としての私」という語の重みのごとし。あるいは、別の仕方で「責任」ということを受け止めていこうとするような星回り。
20世紀を代表する哲学者であるレヴィナスはラジオ講座を収録した『倫理と無限―フィリップ・ネモとの対話―』の中で、「責任とは他人に対するもの」であり「他人との絆はただ責任として結ばれ」るのだと述べた上で、そうした責任とは「いかなる対話にも先立つ奉仕」であり、「他人の中にみられる表情(人間の身体全体も、その意味では多かれ少なかれ、顔なのですが)」によって差し向けられるものなのだと語っていました。
当然、聞き手はレヴィナスのこうした考えに対し、「他人もまた私に対して責任があるのでは?」と聞き返すのですが、彼は次のようにそれに返答しています。
私が他人に臣従するのは、まさに他人と私の関係が相互的なものではないからであって、その意味で、私は本質的に「主体=臣下(subject)」なのです。すべてを引き受けるのはこの私の方なのです
この「臣下としての私」とは、現代社会でよく見られる特定の個人に罪をなすりつけるために使われる「自己責任」とはまったく異なるものです。それは人間としてある限り、拒否することのできないものであると同時に、レヴィナスの言葉を借りれば「この重荷は唯一者にとっての最高の栄誉に他なら」ず、つまりは「譲り渡すことのできない私の主体的な自己同一性」に他ならないのです。
11月27日にさそり座から数えて「絆」を意味する8番目のふたご座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、こうした言わば“下”からのイニシアチブに基づいて、他人との近さの中で積極的に責任を負っていくべし。
ショーペンハウアー的な考え方
例えば、うつ状態で苦しんでいる人に対し「がんばれ」が禁句であることは、ここ数年で一般的にもだいぶ認知されてきたように思います。ただ、だからと言って悩み苦しむ人に「頑張らなくていいよ」とか、「一人で抱え込まないで」などと安易に慰めの言葉をかければいいという訳ではなく、そういう言葉を吐くのだとしても、それには相応の責任の背負い込みが求められるのだということは言及しておく必要があるはず。
では、自死を考えるほどに悩み苦しんでいる人がもし目の前にいるとしたら、何を考え、いかに語ればよいのか。ここで思い出されるのがショーペンハウアーの『自殺について』の幾つかの記述です。
もしも生命の断末が何かしら純粋に否定的なもの、現存在の突如とした中止のようなものであるとしたら、まだぐずぐずして自分の生命に終止符を打っていないような人間は誰もいなくなることであろう。―ところが生命の断末には何かしら積極的なものが含まれている、即ち肉体の破壊である。この肉体の破壊に脅かされて、ひとびとはしりごみするのである。なぜなら、肉体は生きんとする意志の現象に他ならないのだから。
自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差し出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになるものであるということ
ここでショーペンハウアーが考えているこの世の苦悩は、あくまで巨大な根本的問題としてあり、個別的に命を断ったところで本質は何も変わらず、そういう形で根本的問題の克服方法を見出そうとしても不可能なのだと何度も述べています。
今週のさそり座もまた、許せないものや耐えがたいものをめぐる苦悩に対して、それを直視しつつも、なんとか生きていこうとする方へ身を傾けていきたいところです。
さそり座の今週のキーワード
「すべてを引き受けるのはこの私の方なのです」