さそり座
宇宙的な仲介
井月の「たまたま」
今週のさそり座は、『落栗の座を定めるや窪溜り』(井上井月)という句のごとし。あるいは、転がり込んできた「たまたま」を改めて引き受けていこうとするような星回り。
作者は江戸から明治にかけて全国を放浪したあと、信州の伊那谷に居着いた人。したがって、掲句の「落栗(おちぐり)」には自分自身の人生が重ねられているのだと言えます。
大きな視点にたてば、それは芭蕉以来の江戸俳諧を、新時代へと繋いでいく流れとも重なっていくのですが、ここではあまりそれを大っぴらに喧伝するのでなく、むしろ地の窪みに集まっている姿へと素朴に描き出しています。
その意味では、客観写生を説いて明治大正俳諧を切り開いた正岡子規の先駆的な境地にも立っているのだとも言えますが、本人としてはあまりそういう看板を意識していた訳ではなかったはず。
あくまで、たまたまそこに肌に合った居場所ができて、共に俳諧をたのしむ友があったし、何の因果か知らねども、はざまの時代にも生まれついた。そういう「たまたま」を、自分は引き受けたのだ、という手応えのようなものが掲句の根底にあったように感じます。
その意味で、16日にさそり座から数えて「社会的存在」を意味する10番目のしし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ひとつの地の窪みにでもなったつもりで、自分のもとに集まってきた落栗を引き受けてみるべし。
さかさまな植物としての人間
思い返せば古代ギリシャのプラトンは、人間の頭、つまり理性を植物の「根」に喩え、人間を「地面のではなく、天空の植物」であり、根を中空に向けた、さかさまな植物なのだと書き記しました。さらにそれに続いて近代合理主義の起源でもあるアリストテレスもまた、「動物において頭にあたる部分は、植物では根にあたる」として、人間と植物のアナロジーを基礎づけたのです。
通常、植物における根は地中に隠れており、生存に必要な水分と栄養を周囲の環境から取り入れることで、自身と周囲の環境との共生関係を作り出しています。つまり、堅牢な土壌の中に張りめぐらされた根を行き交うのは単なる物質にとどまらず、互いの関係性を決定づける有機体情報やリスクにまで及んでいくのです。
植物はその環境から自分の利得だけをかすめ取ることを決してよしとはしません。表に見せている姿とはまったく異なる、意外な形状の根をアンテナのように環境へと積極的に伸ばしていくことによって、自身を宇宙的な仲介役にしようとしていくのだと言えます。果たして、そのような植物的な在り方、特に「根」をめぐる環境との関わり方をどれだけ人間は実現できるのでしょうか。
今週のさそり座もまた、地の窪みでどんな風に根を張り巡しているのか、すなわち、どのような「共同体」や「共生関係」をいま自分がデザインしつつあるのかということを、改めて俯瞰してみるといいでしょう。
さそり座の今週のキーワード
宇宙的なデザインを施していくこと