さそり座
光に通じる道のほうへ
こころが透き通るとき
今週のさそり座は、『光の国』という詩のごとし。あるいは、“内なる太陽”が本来ふさわしい自分の居場所を見つけていくような星回り。
いぜん読売新聞の「家庭とくらし欄」に、堀口智美さんという小学3年生の子どもの作品として、次のような詩が掲載されていました。
スイミングのかえりに/あくびをしたら/なみだが出てしまいました
そうしたら/なみだで/車やしんごうの光がにじんで
光の国にいるみたいでした
光いがいは/何も見えませんでした
そこが自分だけしか見えない/せかいでした
私たちは誰しもがこうした子どものような心を表現する衝動を、大人としての人格の背後に隠し持っていますが、こうした謎の直接的体験について言葉にできた稀有な作品に触れるとき、そうした衝動がまるで戯れのなかで発散され、解消されて、透明になっていくのを感じることができるはずです。
それと同様に、4月13日にさそり座から「インナーチャイルド」を意味する5番目のうお座で木星と海王星が重なっていく今週のあなたもまた、内なる太陽がいきいきとよみがえっていくのを感じることができるかもしれません。
彷徨う魂の一光景
インナーチャイルドの本来の居場所が「光の王国」だとすれば、そこに至るまでの過程は「賽の河原」にいるのだとも言えるかも知れません。
ただ、「賽の河原」というと、どうしても私たちは幼くして死んだ子供らが河原に積んだ石の塔や、それを崩す鬼といった陰鬱なイメージを思い浮かべてしまいますが、その古層にはサイの神(道祖神)に関するフォークロアが幾重にも折り重なっています。
例えば、民俗学者の折口信夫は「賽の河原は山人と村人との会うところで、ここを措いては山のものと里のものとは行き会わぬ。また山と里の境で、お互いその境から先には行かぬことになっている。すなわち、賽の河原は一種の市である」(『日本芸能史ノート』)と述べる一方で、賽の河原の場所について「申し合わせた様に、寂しい水浜、山陰にあって、相当の距離ある、ある部落と次の部落との空地にあることが、常である」(『民俗史観における他界観念』)とも記述しており、柳田国男は「死んだ子の行く遠い処とのみ思っていた賽の河原も、かえって子を求むる極めて近い、道祖の神の祭場とその根源の一つであると云うこと」(『賽の河原の話』)とも書いています。
つまり、さびれた村境の“賽の河原”には、もはや村にはいられず、さりとて理想的な他界(外部)に行くこともできずに彷徨っている未熟な魂(子ども)が集まっていて、サイの神(道祖神)とはそんな子どもを祀る神だったということなのかも知れません。
今週のさそり座もまた、目に見えないところで自分がどれだけ愛されていたのかを再確認するという体験をしていきやすいはず。
さそり座の今週のキーワード
置いてきた子ども心の居場所を見つける