さそり座
春・メタモルフォーゼ・古井戸
絶対的距離の導入
今週のさそり座は、最初の神の死に際しての「神(かん)避(さ)りましき」という表現のごとし。あるいは、異空間へと移っていこうとするような星回り。
春は濃厚な死の気配が漂う季節でもありますが、イザナミ神が火の神の出産によって死んだとき、この最初の神の死は「神避りましき」と表現されました。つまりこれは原初において死が空間的なものであったことを示しており、さらに「避(さ)る」という営為は瞬間的なものではなく、新しい時間的連続の開始を意味していました。
ただここで注意を向けるべきは、イザナギ神はなぜ愛しいわが妻の死体を前に、ただ「み枕方にはらばひ、み足辺にはらばひて哭」いただけに留まったのかということ。なぜ胸乳を、くちびるを貪り、男の肉身と女の屍体は重なり、絡みあわなかったのか。
イザナギとイザナミ。生においては分かちがたい一体であったものが、死においては分かたれなければならない。「枕方」、「足方」、この「方」の一字に込められた断絶感は、生者の側が規制した死者との距離であったのではないかと思われますが、一方の死者もまた「神避る(離る)」ことによって、絶対的距離を導入したのです。
4日夜にさそり座から数えて「遠心力の最大発揮」を意味する9番目のかに座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ある種のメタモルフォーゼを遂げていくべく、相応の振る舞いを心掛けていくべし。
薄暗がりの胴体人間
メタモルフォーゼで思い出される作品の一つに、昭和4年に発表された江戸川乱歩の『芋虫』があります。この短編小説は、戦争で両手両足だけでなく、聴覚、味覚といった五感のほとんどを失い、視覚と触覚のみが残された傷痍軍人を描いたもの。
そのラストで視覚も失い、鈍い皮膚感覚だけを頼りに、古井戸に身を投げるため薄闇の庭を這っていく胴体人間の姿は、さながら胎児の頃の人間そのものであり、またどこか今週のさそり座にも通底していくものがあります。
考えてみれば、母の胎内の温度というのは一体何度ぐらいなのでしょうか。風邪をひいて全身が熱をもった時に訪れる、体と同じくらいの温度の粘っこい感触に包まれるあの空恐ろしい悪夢が、もし胎児の頃の記憶の残滓だとすれば、胎内に満ちた羊水の温度はかなり高いように思います。
今週のあなたも、そんな風に熱に浮かされるがごとく、普段見えないところへ意識が飛んで、それに後から身体もついていくことになるかも知れません。
今週のキーワード
「神避りましき」