いて座
個性のうみだし方
センスとは何か?
今週のいて座は、ロラン・バルトの仕事術のごとし。あるいは、常識や通例などからは「はみ出した身体性」の部分がおおいに強調・増幅されていくような星回り。
これさえ守れば達意の文章が書けるといったある種の公式やアルゴリズムというものがあるのではないか、というのはおよそ書きものを仕事にしている人間が一度は抱くであろう普遍的な夢想と言えますが、現実には一見不合理で無意味に見える固有の儀礼を作りあげていることがほとんどです。
例えば、20世紀を代表する批評家の一人であるロラン・バルトは、あるインタビューにおいて、著作をどう書いているのか?というインタビュアーからの質問に対して、自分は創造の過程を2つに区別しているのだと述べた上で、次のように語っています。
まず最初に、欲望が書くことへの衝動に配備され、書かれたものに到達する瞬間があります。次に、その手書きされたものが今度はタイプされたものに変り、無名かつ集団的な形で他人の手に渡される危機的な瞬間があります(しかもそれは商品に変るとも言わなければなりません。事実この段階ですでに商品化ははじまっているのです)。(ジャン=ルイ・ド・ランビュール編、岩崎力訳『作家の仕事部屋』)
もちろん、このインタビューが行われた時代から数十年後の現在では、最初の手書きの段階の必要性などほとんど無意味なのではないかとツッコむ人は多いでしょう。
しかし、バルトはあくまで「エクリチュール(※書くこと)はまさしく自由と欲望の領野に属するもの」であるということを最初に実感するのでなければ、書かれたものにも「独特な自発性」は宿らないと信じている節があり、それゆえに「いつかある日自分でペンで書くことを完全にやめられるかどうか疑っている」のだとまで言っていました。
その意味で、7月21日にいて座から数えて「極私的な実感」を意味する2番目のやぎ座で満月を形成していく今週のあなたもまた、仕事であれプライベートであれ、自分なりの“センス”を信じてそれを思いきり打ち出してみるといいでしょう。
松の小枝の松葉のように
古来より、多くの心理学者が人間的個我の有機的統一体を象徴するものとして樹木を使ってきました。
そして西洋とりわけアメリカ人においては、「個人」というのは、しばしばもっぱら背が高くて真っ直ぐで、ひときわ目立ってそびえている、というものであるのに対して、日本の伝統的な庭園では、むしろ横に広がって延びていたり、枯れ木も組みこまれていたりなど、木々はそれぞれ隣り合った木々と調和ある均衡を保っているものがよいとされてきました。
つまり、日本ではどうやら個というものは、緊密な集合関係のなかでの、質的差異を意味するものであって、独立して離れているとか、際立っているということではないんですね。
むしろ松の小枝の松葉のように、一見すると互いに非常に相似ているという場合に限り、日本では、そのひとつひとつがほんのかすかに、繊細に異なっているということで真の個別性が成り立っているのだと考えられていた訳です。
それは西洋において単一性や孤立性のあらわれとして見なされる個別性とか個性ということとは、かなり違っているのかも知れません。
今週のいて座もまた、そうした文脈を踏まえた上で自分なりの個性の発揮の仕方ということに立ち戻ってみるといいでしょう。
いて座の今週のキーワード
微妙な差異を活かしあう