いて座
奇跡などいらない
深い宗教的要請に気が付くこと
今週のいて座は、ある父と娘の対話のごとし。あるいは、「病める文化の症候」に正しく対処していこうとするような星回り。
今の社会では、少しでも気を楽にしてくれるものなら、自分からすすんで騙されようとする心性が強まっており、それは歴史を鑑みれば俗にカルトと呼ばれる狂信的な集団倒錯が発生しやすい条件に他ならず、そうした状況が巧妙に準備されているように感じられます。
ただ、ここで思い出されるのが、精神医学者で文化人類学者でもあったグレゴリー・ベイトソンの『精神と自然―生きた世界の認識論―』の中の、父と娘の対話形式で構成されたメタローグです。
父 私は長いこと宗教のためには一種の低能さが必要条件だと思っていた。そしてそれが耐えられないほど嫌だったのだが、しかしどうもそうではないらしい。
娘 ああ、それがこの本のテーマなの。
父 いいか、彼らは信仰を教え、降伏せよと説教する。しかし私の望みは明晰さにある。(…)私の宗教観に転換をもたらしたことに、フレイザー流の魔術観が逆立ちしている、あるいは裏返しになっているという発見があった。魔術から宗教が発生したという伝統的な考え方があるが、逆だ。宗教が堕落して魔術になった、そう考えるのが正しいと思う。
娘 じゃあ、パパの信じないことって何なのか、それをお聞きしようかしら。
父 うん、例えばだな、雨乞いダンスの本来の目的が雨を降らせることになったとは、私は信じない。そんな浅薄なもんじゃない。もっと深い、何というか、人間もまたエコロジカル・トートロジー―つまり生命と環境を一まとめにした不変の真理だね―その中にちゃんと属しているんだというメンバーシップの肯定、そういう深い宗教的要請があるはずだよ。それを「雨が降りゃいい」などというレベルで見るのは、こっちが宗教的に堕落しているからだ。/宗教ってものは、いつも堕落に向かう傾きを持つ。堕落が要請されるとさえ言っていい。みんなして寄ってたかって、宗教をつくり変えてしまうわけだ。娯楽だとか政治だとか魔術だとか“パワー”だとかに。
娘 ESPとか、霊魂顕現とか、霊魂遊離とか、降霊術とか?
父 みんな野卑な物質主義を安易に逃れようとする誤った試みだ。病める文化の症候だよ。奇跡とは、物質主義者の考える物質主義脱出法さ。
4月24日にいて座から数えて「浄化」を意味する12番目のさそり座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、ベイトソンのいうように現代文明の野卑な物質主義から逃れる道として「奇跡」を求めるのではなく、もっと「深い宗教的要請」(例えば「醜を含めた美」の追求など)に従ってみるといいでしょう。
ぎらぎら
例えば、江戸川乱歩が30代半ばで書いた初の連載長編『孤島の鬼』は、語り手である「私」が体験した「人外境」の悪夢が一人称でえんえんと語られていくというものなのですが、話が進むにつれて「私」は2つの恋のあいだに渦巻かれていきます。
一つは、性欲倒錯者にして解剖学者である風変りな友人・諸戸から寄せられる同性愛的恋であり、もう一つが化け物の群れが棲む孤島で出会った畸形の少女(腰のところで粗野な少年と癒着した)への怪物的な恋。自分は人間というより獣なのだと少女は語ります。
あるとき、ご飯のおかずに、知らぬおさかながついておりましたので、あとで助八さんにおさかなの名をききましたら、タコといいました。タコというのは、どんなかたちですかと尋ねますと、足の八つあるいやなかたちの魚だといいました。そうすると、わたしは人間よりもタコに似ているのだとおもいました。わたしは手足が八つあります。タコの頭はいくつあるか知りませんが、わたしは頭のふたつあるタコのようなものです。
「私」はそんな両性具有的な不定形の怪物に想いを寄せる一方で、「君は浅間しいと思うだろうね。僕は人種が違っているのだ。すべての意味で異人種なのだ」と一人ふるえ上がる孤独な友人から想いを寄せられ、両者のあいだで引き裂かれていく訳です。しかし、そもそもそれら2つは「私」自身の秘められた性(サガ)と無関係であったのでしょうか。
今週のいて座もまた、常識の定める一線を超えていくことで、ある種の自己解放をはかっていくことがテーマとなっていきそうです。
いて座の今週のキーワード
もうめちゃくちゃだ。だれそれでいい!