いて座
偶然に癒される
あらぬ方角にポーイと放る
今週のいて座は、「ボナンゴ」という発話行為のごとし。あるいは、思い切って必然性を切断し、偶然へと接続していこうとするような星回り。
木村大治は『共在感覚―アフリカの二つの社会における言語的相互行為から―』の中で、ザイールの農耕民ボンガンドによる「ボナンゴ」という発話行為について論じています。いわく、村の広場において大声で話す「奇妙な」人と、その横を何ごともない顔をして通りすぎていく人びとの姿を目撃したことがきっかけに、何を話しているのかを調べてみたと。
すると、その内容は一緒に働かないかという呼びかけや、誰々が亡くなったなどのニュースの他、「暑くてたまらん」「寄りかかりたいけど相手がいねえ」みたいな愚痴も多いのだとか。木村はこうした発話を「投擲的発話」と名づけ、すでに基底的なつながりが十分にある彼らにとって、こうしたあえてつながりを切ることを目的とした操作を入れないと、みなが疲れきってしまうのだ、と説明しています。
これはSNSの「いいね」やRT数を伸ばすことがお金を稼ぐことに、つまり資本主義的スケールにそっくり回収されてしまっている現代日本にも割と置き換えやすいのではないでしょうか。つまり、内輪でいいね&RTしあい続ける島宇宙的な小集団主義はわりと容易に毒が回りやすい諸刃の剣であり、そうした使い方とは別に、明確な意図などなかったり分かりやすい反応を期待していないような「バグ」的な投稿をはさんだり、他人の「投擲的発話」に気まぐれで応答したりすることで、私たちはやっとひと息つけているのではないか、と。
その意味で、7月18日にいて座から数えて「息継ぎ」を意味する8番目のかに座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、不透明で、偶然性をはらんだ行為を積極的に「投擲」してみるといいでしょう。
ポアンカレの偶然性の定義
歌人の穂村弘が『もしもし、運命の人ですか。』という恋愛エッセイ集を出していますが、まだ固定電話オンリーだった子どもの頃に、筆者の周りでは適当にダイヤルを回して電話に出た相手にそれと同じ言葉を発して反応を試すという遊びが流行っていました。
そうした他愛のない電話遊びも、考えてみれば、偶然というものを存在論的なものとして見なすべきか、それとも認識論的なもの、すなわち、主観的で注意を払うに値しないものと見なすのかという、重要な問いの萌芽(ほうが)を孕んでいたように思います。
この点について、フランスの数学者アンリ・ポアンカレは、偶然性の定義について以下のような興味深い提案をしています。
われわれの眼に止まらないほどのごく小さな原因が、われわれの認めざるを得ないような重大な結果をひきおこすことがあると、かかる時われわれは、その結果は偶然に起こったという。(吉田洋一訳、『科学と方法』)
電話遊びに紐づければ、押したボタンが一つ違えば、まったく異なる先に繋がってしまう訳です。今週のいて座もまた、そうした偶然がみずからの人生にどれだけ大きく作用しているかということについて、改めて実感していくことでしょう。
いて座の今週のキーワード
バグの宝庫としてのSNS