いて座
寄り添いと戯れ
縁の不思議
今週のいて座は、「百日紅釈迦の阿難のわれ彳(た)つも」(下村槐太)という句のごとし。あるいは、誰かを救うことで自分も救われるのだろうか、そんな思いに裏打ちされていくような星回り。
釈迦がその下で誕生したとされるアショーカ樹(無憂樹)の代用樹である百日紅(さるすべり)は、日本中の寺の境内によく植えられており、夏には文字通り100日間にわたり紅色の花を咲かせていく。
さて、掲句ではそんな百日紅の佇まいと、釈迦の最愛の弟子・阿難(あなん)のごとき「われ」とが並べられている。釈迦と阿難は救済者と被救済者という立場を超えて、それを逆転させるかのような不思議な縁のつながりを感じさせるが、作者はそこに自らとの縁をも差し込んでいく。
ただ、他者にして即自己なる人物の佇まいにさっと身を寄せてはいるものの、「われ彳つも」の「も」には「本当にこれで大丈夫なのだろうか」というかすかな苦渋を湛えた「われ」の表情も透けて見える。
今週は、自分の横に誰かを並べ、迷いつつも密に関わっていくなかで不思議な縁のつながりを思い知っていくことでしょう。
はかなさの感覚と遊び
以前、鎌倉文学館を訪れた際に「人生もまた一輪の花のようにはかないものであるならば、友よ、砂の上にぼくらの家を建てて、遊ぼう」といった一文を目にした記憶があります。
砂場で遊んでいる世代の子どもならば、そんなことをいちいち言語化して考えたり、会話することはないでしょう。
ですがその場に居合わせた子供らで実際に砂場や砂浜で大きなヤマをつくり、トンネルを掘って、そこから向こう側をのぞいていると、存在するもののはかなさと美しさのようなものが、自然と共有されたように感じられる時があります。
そういう意味では、ときどき大人が子どもみたいなことをしたくなるのも、もっともなことなのかもしれませんね。
後先のことなど変に考える必要はないのです。俳句も遊び、宗教も遊び。それが希望である限り、それがどんなものであれ、あなたには遊びを追求していく権利がある。この世で思う存分、遊んでていきましょう。
今週のキーワード
大人はときどき子どもを真似していく