うお座
ピエタの巫女
自分に同情して泣く
今週のうお座は、ショーペンハウアーのピエタ論のごとし。あるいは、ひとり静かな気持ちでいられる時間をいかに深めていけるかが、いつも以上に問われていくような星回り。
ミケランジェロの聖母子像は、マリアが十字架から降ろされたイエスの亡き骸を抱いて慈しみ悲しんでいる姿を表現されたものですが、そうしたマリアの姿をあらわした絵や彫刻のことを<ピエタ>と言います。
イタリア語の<ピエタ>は「慈愛」という意味だけでなく「共感共苦」という意味も兼ねており、この点について取り上げた哲学者のショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』(西尾幹二訳)の中で、あらゆる真実の純粋な愛は共感共苦であり、そうでないようなあらゆる愛は自己愛であり、利己心なのだと述べています。
さらに彼の筆致が冴えわたるのは、「泣くことは自分自身に対する同情(共感)である」ということを、ルネサンス期の詩人ペトラルカの歌によって裏付けている箇所で、それは次のようなものです。
思いに耽りつつさまよっていると、/にわかに私自身への強い同情の念が襲ってきて、声を張り上げて泣かずにはいられぬことがたびたびある。/これまではこんな思いをしたことはなかったというのに。
つまり、ショーペンハウアーによれば他人の苦悩を自己の苦悩に同一視するときにのみ、人は愛の業や善い行為を行うことができるのであり、彼はそこに「これは自分の苦悩から出てこそじかにわかる」のだと続けています。
2月24日にうお座から数えて「他者との関わり」を意味する7番目のおとめ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、自分がどんな苦悩を抱え込んでいたのかということを、誰かに対して(同時に自分に対して)泣くことを通じて再確認していくことでしょう。
自己価値としての「empathy」
『論語』のなかに「己れに如かざる者を友とすること無かれ」という一節があります。ここはしばしば「自分に及ばない人を友にして付き合ってはいけない」と訳されますが、「如かざる」を「及ばない」とか「劣った」という意味にとってしまうと、どうも功利主義的で孔子らしくありません。
白川静の『常用字解』で「如」を引くと、もともとこの漢字は祝詞を唱えている巫女の姿を表したもので、神意を問いそれに近づくことを「如く」と言うのだそうです。
つまり、「如かざる」とは「(巫女が神に対してするように)一体化することのできない」という意味であり、「sympathy(自分の感情が主体の共感)」ではなく「empathy(相手の感情が主体の共感)」に近い言葉なんですね。
そして、今週のうお座にとっての「価値」もまた、この意味での「共感(empathy)」にこそあり、そこでは「自分らしくある」とは、そのまま「巫女らしくある」ことに重なっていくはず。
うお座の今週のキーワード
「如」の一字としてある