うお座
黙って跪いて手を合わせる
自然からの呼び声に対する応答
今週のうお座は、挨拶としての「合掌」のごとし。あるいは、理屈を超えたところで、「命」や「自然」を何かと軽視しがちな時代の風潮に抗っていこうとするような星回り。
普段から宗教的な教えや習俗をことさら意識しない人でも、誰かが亡くなった痕跡に不意に直面すると、なぜだか手を合わせたくなるのはなぜでしょうか?こう問うと、すぐに日本は古来からアニミズム信仰があるからという定型文で終わってしまうことが多いですが、例えば宗教学者の山折哲雄は『救いとは何か』の中で、次のように答えています。
一つの説明の仕方として、それを挨拶の一種として捉えるということもできる。ヨーロッパにおける挨拶と言えば片手を差し出す握手ですが、あくまでそれは人間が対象となっている。もちろん、アジア仏教圏における合掌も挨拶として行われていますが、と同時にその合掌が自然や宇宙に対してもなされているのではないか。この違いは大きいと思う。
ならばキリスト教圏で合掌しないかというと、そんなことはありません。手を合わせている聖母マリア像もよくみる。イスラム教でも合掌はあるわけで、そうなると合掌というのはきわめて普遍的な身体行為であるということになる。何ものかに対する畏れの気持ちとして、あるいは慎みや呼びかけの行為として、さらには自然からの呼び声に対する応答としてこれを解釈することができるのではないか。
頭でどうこう考える以前に、身体的レベルで特定の人間をこえて自然や宇宙に対して返してしまう「普遍的な挨拶」であるという、この山折の視点を積極的に言い換えれば、挨拶が自然と習慣化されていけば、本来の意味でのいのちの感覚を深めていくこともまたできるのではないでしょうか。
12月13日にうお座から数えて「公的態度」を意味する10番目のいて座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自分なりの現実との向きあい方をめぐって、ひとつ「挨拶」というところから見直してみるといいかも知れません。
無言の前衛
その人のなかで新たな価値だったり、新しい信仰が生まれつつある時というのは、いくら丁寧に言葉を紡ぐことを心がけても、かえってその乱暴さばかりかが目についてしまうものです。なぜなら、何事かを言葉に託すごとに、その言葉に裏切られるから。したがって、それを繰り返していくと、おのずと沈黙だけが残っていく。
そうして、自分の中で新しく生まれてきた何かは黙って示されることになる。というより、「黙って置かれる」他ないのです。
その置かれたものに、誰かが気付いて拾ってくれればいいし、気付いてくれなければそれはそれで仕方がない。こちらもそのまま黙っているしかない。人を信じるというのは、そういうことでもあるはず。
こうして書いてみると、やはりそこで言葉を尽くして説明し、相手を説得するとか、わかってもらわなければ気が済まないというのは、今のうお座に求められている態度とは最も正反対のところにある訳です。
これまでとは少し違う形で、自分なりの愛を堂々と表現してみること。そして、そこではできる限り「引き算の愛」を意識してみるといいでしょう。
うお座の今週のキーワード
合掌の習慣化