うお座
めぐりめぐりて
血はどこからやって来るか
今週のうお座は、子どもの頃に聴いた「わらべ唄」のごとし。あるいは、祖先のこころが宿る場所へと繋がっていこうとするような星回り。
赤ちゃんが生まれた時、親や親戚、友人一同が見舞いに来て、まずいう言葉は昔も今も「この子はお父さん似だ、鼻がそっくり」とか「目はおばあちゃん似だね」といった言葉でしょう。これは言う方も聞く方もあまりに日常的なことなので、少しも特別なことだと思わない訳ですが、実はそうではないのだと、長年にわたり民話の採録・再話に取り組んできた松谷みよ子は言います。
こうした言葉ほど、ひとりの赤ちゃんの生命が連綿と祖先から受け継がれたものであることを語っている言葉はない。そして母の腕に抱かれ、ここはじいちゃんにんどころとあやされて育った子は、自分でも知らないうちに、生命の重みを知るのではなかろうか。
戦後児童文学の開拓者でもあった彼女は、著書『民話の世界』(1974)の中で、子守歌や民話が語り継がれていくことの大切さについて、次のようにも言及しています。
じいちゃんがあり、ばあちゃんがあり、とうちゃんがあり、かあちゃんがあり、姉ちゃんもいて、そして自分が存在するということ、木の股から生まれたのではないということ、良くも悪くも受け継がれた血をからだの中に持っているということを知るのではないだろうか。
今ではすっかり歌って遊ぶ子どもも少なくなってしまった「わらべ唄」が大切なのは、そこに「受け継がれていく生命の重みとして受けとめてきた、私たちの祖先のこころ」があるからに他ならないのだ、と。
10月6日にうお座から数えて「再誕」を意味する5番目のかに座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、こうした「語り継がれてきた言葉の重み」やそこから言葉を発していくことがテーマになっていきそうです。
継承と変容
言葉というのは単に情報を伝達するためのものではなく、その語り口や語の選択によって、手触りや響きや質感などが大きく変わっていくものです。
例えば短歌は、五七五七七という決められた枠の制限を設けることで、そうした微妙な差異にきわめて自覚的に関わっていく営みであり、それを達人の域まで磨き上げてきたのが歌人という人たちなのだと思います。明治時代の与謝野晶子は次のように詠みました。
八つ口をむらさき緒もて我れとめじひかばあたへむ三尺の袖(ペアルックなんか着ないわ新しい服をくれるという人が彼)(俵万智『チョコレート語訳 みだれ髪』)
この「彼」というのが与謝野鉄幹だった訳ですね。それにしても、きっと人生には一度しか書けない文章や語の組みあわせというものがあって、与謝野晶子はあの時代に自分の命を燃やしてそういう言葉を紡ぎ続けてみせた訳ですが、俵万智はそれをもっとさりげなく、軽やかに、けれどやはり二度とないさじ加減で作り変えてみせました。
こうして言葉の底にある思いを受け継ぎつつも、言葉を変えて繋いでいくのも言葉を使う私たちの役目なのかも知れませんね。
うお座の今週のキーワード
さりげなく、二度とないさじ加減で