うお座
語りとまなざし
脱・作者至上主義
今週のうお座は、無名の常民の「凡庸の力」のごとし。あるいは、よき「当日の作者」たらんとしていくような星回り。
YouTubeやTikTokなど誰もが気軽に自身のコンテンツを配信できるようになって、コンテンツが過剰供給気味になっている今の時代において、「独創性」といった言葉ほど陳腐化してしまっている概念はないように思いますが、そもそもよい作品とはどのように作られうるものなのかということは、もっと問われてもいいように思います。
確かに誰もが超凡たる天才に憧れる気持ちを持つことは理解できますが、実際にはそうしたごく一部の天才によって良質なコンテンツが作り出されている訳ではないでしょう。そもそも、独創性というのはその起源を「作者」のなかに特定せずにはおかない訳ですが、例えば物語に必要なのは著名な作者ではなくその都度の「話者」であり、そこではむしろ「起源の不在」こそがヒットの原動力となっていく訳で、そうなるとよい作品をつくるのは一握りの天才というより、多数の人々による受容なのではないでしょうか。
この問題について民俗学者の柳田國男は『口承文芸史考』の中で、後者にあたる「口承の文芸」と前者にあたる「手承眼承の本格文芸」とを対比しつつ次のように論じています。
私などの見たところでは、二種の文芸の最も動かない境目は、今いう読者層と作者との関係、すなわち作者を取り囲む観客なり聴衆なりの群が、その文芸の産出に関与するか否かにあるように思う。(…)ことに群衆が歌を思う場合などは、それが踊りの庭であり、酒盛りの筵(むしろ)であり、はたまた野山に草を刈る日であるを問わず、いまだ声を発せずして彼らの情緒は一致していた。何人よりも巧みにかつ佳い声でもって、これを言い現そうとした者が当日の作者であって、通例はこれを音頭といっていた。音頭を取る者は各自の器量次第、もしくは趣味のいかんによって、ありふれたる歌をうまく歌って褒められ、あるいは人の知らぬ文句を暗記して折を待ち、あるいは即興に自作を発表する者もあったろうが、いずれにしたところで、聴く者の言わんとしてあたわざる感覚を、代表するより他のことはできなかったのである。
柳田はここで明らかに、無数の物語を語り伝えてきた無名の「常民(民間伝承を保持している人々)」を意識しており、国の文芸の進展は超凡なる天才の力によるよりも、それを証明してきた「背後なる凡庸の力」によるのだ、という考えがその根底にあったはず。
5月20日にうお座から数えて「いきいきとした交流」を意味する3番目のおうし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした力を構成する一部として日頃から自分が何を受容しているか、そして受容していきたいのかということを、改めて振り返ってみるといいかも知れません。
作品はまなざしの交歓によって作られる
ポルトガルのロカ岬の碑文に刻まれた「ここに地終わり、海始まる」という詩の一節で知られる詩人にカモンエシュという人物がいます。彼のある夜通しの一夜について語られた文学的資料によれば、テーブルに灯していた蠟燭が消えた時、この詩人は飼い猫の眼の光で詩を書き続けたのだとか。
蝋燭に照らされ、霊感の火の中にあって、詩句から詩句へと、作品はそれ自身の生を得、魔法のように展開していき、それをテーブルの上のおのおののものが支えていく。蝋燭がいなくなっても、そこには猫がいた。猫はしっぽをぴたりと机につけて、神の上を走る主人の手を見ていた。そう!火にみちた眼で詩人の手から詩が生みだされていく様子をじっと見つめていたのです。
つまり、カモンエシュの詩作においては、すべてが視線から構成されていた訳で、ひとつの視線が衰えれば、他のの視線同士がより一層協力しあって埋め合わせをするようにできていたのだとも言えます。その意味で、今週のうお座もまた、以前から目をかけていた相手や営みにより一層力を注いでいくべし。
うお座の今週のキーワード
響きあう言葉たち