うお座
はらわたのうごめきのみがここにある
ぽぽのあたり
今週のうお座は、『たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ』(坪内稔典)という句のごとし。あるいは、「俳味」ということをわが身で体現していこうとするような星回り。
「たんぽぽ」の「ぽぽのあたり」と、繰り返し「po」という破裂音が発されることで、句全体に躍動感がでて、明るい印象に仕上がっている一句。「火事ですよ」というのも、災いが起きていると言うより、灯りがともっているかのような小さな火のイメージでしょう。
作者はこの句を差しあたって自分の辞世の句にしよう、という旨のことをどこかに書いていましたが、「辞世の句」というものに何かもっともらしい人生訓のようなものを期待している人がほとんどであることを考えれば、俳諧というものが本来持っている軽妙・洒脱な味わいとしての「俳味」をあくまで地で行き続けることこそが、作者の意図なのでしょう。
また、作者にとって「辞世の句」というのは人生の最期に一度かぎり詠むものというより、人生のその時どきで、自身の生き様や大切にしていきたいことを確認する意味で、何度でも繰り返し詠み改めていくものといったニュアンスをもっているのだと思います。ただ、それにしたって、ここまで意味を削ぎ落した一句を、人生の中年期に自身の辞世の句であるとあえて発表してしまうところなどは、さすがという他ありません。
4月13日にうお座から数えて「中長期的なビジョン」を意味する11番目のやぎ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ここらで一つ辞世の句を練ってみるべし。
生の実感の源としての「心」
心はどこにあるか?と聞けば、現代人のほとんどは胸を指すことと思いますが、しかし、江戸時代までの武士などは腹を指したのだと言います。だからこそ、身の潔白を証明する際に、昔はみずからの腹を切ってみせたのでしょう。
それは腹の深奥にこそ「清き心」はあるのだというイメージが、当時の人たちのあいだに浸透していたことの何よりの証左であった訳ですが、どうもそれは洋の東西を問わずに共通したイメージであったようで、たとえば聖書にはイエスだけが使う「あわれみ」を意味するギリシャ語の「スプランクニゾマイ」という言葉が出てくるのですが、これはもともと「はらわたが動く」が語源でした。
つまり、近代以前や古代においては、なにかが腑に落ちたり、腹をわって話せたり、お腹がきゅっと動いたりする時の部位にこそ、「こころ」は宿っていたのであり、逆に言えば、頭にきたり、ムカついたり、キレたりするときの部位から出てきた思いや考えというのは「心ない」ものであり、したがって真に受けたり信用するには足りなかった訳です。
今週のうお座もまた、心=はらわたで感じること以外はいっそスルーしてみるくらいのつもりで過ごしてみるといいかも知れません。
うお座の今週のキーワード
清き心の表出