うお座
毛穴と苦労
「生霊のうめき」としての信仰
今週のうお座は、「毛穴から沁みるもの」のごとし。あるいは、自分がえらい目にあっているその同じ場所のなかに、極楽浄土を見出していこうとするような星回り。
作家の車谷長吉は「佛の教えは毛穴から」というエッセイを書いていますが、これは30歳の時に東京で身を持ち崩し、無一文で郷里へと逃げ帰った際に、実際に母親に言われた一言なのだそうです。言われた当時はよくわからなかったものの、その後9年にわたり関西各地のタコ部屋を転々とする日々を送るうち、少しだけ身に沁みてきたのだと。
それは、佛の教えというのは、えらい人が書いた佛教書を読めば「目から」入るのでもなければ、高名な坊さんの話を聞いて「耳から」入るわけのものでもなく、日々、骨身を砕いてその日その日を生きていれば、ある苦さとして「毛穴から」沁みるということである。
佛への信仰とは、己れが人間であることのおぞましさを、全身の「毛穴から」思い知った、その先にあることではないか。言うなれば、自己の中の悪に呪われた「生霊のうめき」のようなものではないだろうか。
そして、車谷は百姓として過酷な農作業に従事してきた母親の、「えらい目に逢うたら、佛の教えは毛穴から沁みる。うちは生きて極楽浄土を見るがな。」という言葉でエッセイを締めくくっています。
29日にうお座から数えて「救い」を意味する12番目のみずがめ座の半ばに太陽が達して立春を迎えていく今週のあなたもまた、自分が日々何を毛穴から沁みさせているのか、改めて振り返ってみるといいでしょう。
終わりの想像
いい映画の条件とは一体何でしょうか?
監督の世界観、俳優の演技力、脚本の出来、映像技術の高さ、サントラの充実ぶりなど、いろいろな要素があるでしょう。しかし、また見たいと思わせる映画に共通しているのは、決まって終わり方の素晴らしさに他なりません。
いくら展開が愉快なものであろうと、それが延々と続けば冗長になってしまう。せっかくの感動的な愛のストーリーも終わり方を間違えれば途端に白けてしまう。物語には終わりがあり、まだ終わってほしくない、続いて欲しいと思っているからこそ、その前の一コマ一コマがまるで薔薇の花びらのように輝いて見えてくるのです。
自殺した文豪・芥川龍之介は「君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の最期の目に映るからである」と『或る旧友へ送る手紙』で書いていましたが、今週のうお座もまた、自分の人生の最高の終わらせ方をそっと頭の片隅で思い描きつつ、目下の苦労を存分に楽しんでいくといいでしょう。
うお座の今週のキーワード
生命の完全燃焼