うお座
古きが暮れ、新しきが現われ
「石の実相」ということ
今週のうお座は、「石の相俄(にわ)かに昏(く)るる寒雀」(三好潤子)という句のごとし。あるいは、周囲からすれば意外な一面を発揮していくような星回り。
冬季の雀のことを「寒雀(かんすずめ)」と呼びますが、野に餌が少なくなる冬は、人家の近くに餌を求めて集まります。
道を歩いていると、あたりを低く飛んでいる雀が目に入って、その下に庭があって石があったのでしょう。冬の日暮れはいきなり来て、飛んでいる雀にも、庭の石にも夕暮れの薄暗い暮色(ぼしょく)が兆していく。わけても、石の面相がにわかに変わったという着眼が面白い一句です。
作者の師である山口誓子はこの句について「「石の相」は表面にちがひないが、同時にそれは表面に現れてゐる石の実相である。渋いものと取り組んだものだ。この作者にも隠れてかかるものが潜んでゐたのか」と書いていますが、確かに女性らしく艶やかで情緒をたぶんに含んだ作者の作風からすると確かにずいぶんと渋い句のように感じられます。
しかし、それはある種の見くびりというものでしょう。若い頃から生涯にわたってさまざまな病魔に侵されてきた作者には、「女だから」とか「年若だから」といった無粋なカテゴライズにはおさまらない凄味が俳句を覚えて間もない頃から既に宿っていたのです。
2月3日23時59分に立春を迎えていく(太陽が水瓶座15度へ移行)今週のうお座のあなたもまた、これまで自分のなかに隠れ潜んでいたものが、にわかに表に出てくる実感が不意に湧いてくることでしょう。
「女時」の過ごし方
誰にだって何かひとつのことにそれなりに長く取り組んでいれば、必ずどこかで「スランプ」にぶつかっていくものです。それも何度も。時にはそれが十数年にも及んで、スランプなのか、そもそも才能がないのか分からなくなることだってあるはず。
世阿弥の『風姿花伝』の第七別紙口伝の終わり近くに「男時・女時」という言葉が出てきますが、これなど日本最古のスランプ論のひとつと言えるかも知れません。
「去年盛りあらば、今年は花なかるべき事を知るべし。時の間にも、男時・女時とてあるべし。いかにするとも、能のよき時あれば、必ず悪き事またあるべし(去年大いに運もついて調子がよかったならば、今年はこれといった華のない年になることを覚悟すべきだ。タイミングにも「男時・女時」というものがあって、どんな才能の持ち主であれ、どんな努力をしたとしても、良い出来につながる時もあれば、かえって悪い出来につながってしまう時もあるものだ)」と言い、とくに女時の対応の仕方について説いているのです。
女時(めどき)、つまり運のつかない時、調子の出ない状況にある時、その最良の仕方はいたずらにその状況に抗うのではなく、さりとてさっさと逃げ出してしまうのでもなく、じっくりと付き合うことではなかろうか。そうすれば、掲句のように俄かに状況の相が変わってくる瞬間が必ずある。大切なのは、それを見逃さないことなのだ、と。
うお座の人たちにとっても、今週はそんなことを大切にしていきたいところです。
今週のキーワード
空を低く飛ぶ寒雀