うお座
直観と無意識
蛙飛び込む水の音
今週のうお座は、「古池や蛙飛びこむ水の音」という松尾芭蕉の句のごとし。あるいは、できるだけ無心に、頭の中で日頃考えてきたことが思い切って打ち出されていくような星回り。
このあまりにも有名な句を読むたびに、切断による連続の生成、宇宙的な特異点の発生、無執着な生存などといった、俳句と禅仏教に通底する思想的な主題が見事に語り尽くされているという思いが強まっていくように感じられます。
これぐらい見事にすべてを出しきられてしまうと、あたりはすっかり静かに、すがすがしくなってしまう。二の句が継げなくなるのだ。
しかし、それでもしばらく経てば、やはりだんだんと声があがりはじめ、その声は自然とかつての古池の響きとどこかでつながっていく。
このように、ここで自分のすべてを出しきったと思うくらいの経験がなんなく続いていってしまう一方で、やはりそこで何かが決定的に変わっていくのがこの世界、ないし“生”というものの特徴なのです。
今週のうお座のひともまた、そんな自らの生の切断と連続の両方を、確かな強度をもって感じとっていくことができるでしょう。
ヘウレーカ!
冒頭の句は、たんに社会生活の騒がしい表面の下にあるものと考える静寂だけを詠じている訳ではありません。
それと同時に、この複数性の世界において遭遇するところの、そして、宇宙的無意識に及ぶ時にのみ価値と意味を得るところの、さらに下方にある或るものを指しているように思います。
それはある種の直観的な指差しであり、長く手の込んだ知的な文章を書くような作業とはまったく異なるもの。
いわば禅の悟りのようなもので、あるいは「無意識」を意識するということでもありますし、あるいはアルキメデスがアルキメデスの原理を発見した際に叫んだとされる「ヘウレーカ(わかった)!」という言葉に通じるものでもあります。
観念に訴えようとすれば、永遠にその新鮮味と生命力が失われてしまうような思いつきや着想、腑に落ちる感覚。
そういうある種の偶発的なカタストロフィーによって割れた意識の深い深い底の方へと、今週はさながら小さな「蛙」になったつもりで飛び込んでみるといいでしょう。
今週のキーワード
妙