
てんびん座
カーニバルのただ中へ

愛とメランコリーの結びつき
今週のてんびん座は、想像を通してのみ邂逅しうる光景を描こうとする画家のごとし。あるいは、挫折を経てもまだ諦めきれない思いを自分の中に発見していくような星回り。
もし人が現実ではもう再現することが不可能な光景を描き出そうとするならば、まずそのイメージを知性によってしっかりと固定して、続いてそれを実際に目の前で見ているかのように模倣していかねばならず、しかも1回限りで終わるのではなく繰り返し行っていかねばなりません。
その点について、現代を代表する博覧強記の哲学者ジョルジョ・アガンベンは、ルネサンス期に生きたフィチーノの『愛について』を引用しつつ次のように述べています。
彼によれば「メランコリックなエロスは、愛をむさぼったために、瞑想の対象としてあるものを抱擁の欲望に変えてしまおうとする者によく起こる」というのである。メランコリックな混乱を駆り立てるエロティックな性向は、ここにおいて、本来はただ瞑想の対象としてのみ存在するものに触れたい、そしてそれを所有したいという性向として示されている。こうして、サトゥルヌス的気質の生気を逸した悲劇(※陰鬱と怠惰)は、捕まえられないものを抱きしめようとする身ぶりに潜む内奥の矛盾に、その根をもつことになるのである
こうした観点に立つなら、メランコリーとはみずからが所有できなかった対象を喪失した対象として示そうとする想像的能力に他ならず、そうしてますます募る対象への渇望こそが「内奥の矛盾」ということであり、そうしたメランコリーにおける対象への両義的な関係は、おのずと「息子たちを飲み込む邪悪な神クロノス=サトゥルヌス」に見られる人肉嗜食(カニバリズム)と結びついていくのです。
2月5日にてんびん座から数えて「喪失感」を意味する8番目のおうし座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、そんな「捕まえられないものを抱きしめようとする身ぶり」を激化させていくことになるでしょう。
フットライトはいらない
生きている限り人は日々何かを食べていますが、考えてみれば飲み食いというのは世界との相互作用における暴力性や未完成性の最も直接的かつ明瞭なあらわれに他なりません。
この点について、ロシア文学者の桑野隆は「カーニヴァル」という語を用いて人々が「新しい、純粋に人間的な関係のためにまるで生まれ変わった」かのような体験をしていくことを分析したバフチンの思想を次のような箇所から紹介しています。
カーニヴァルには演技者と観客の区別はない。カーニヴァルには、たとえ未発達の形式においてですらフットライトなるものは存在しない。フットライトがあれば、カーニヴァルはぶちこわしになろう(逆にフットライトをなくせば、演劇的見世物はぶちこわしになろう)。カーニヴァルは観るものではなく、そのなかで生きるものであって、すべてのひとが生きている。(『バフチン』)
さらに、バフチンがカーニヴァルの特徴として、誕生と死、祝福と呪詛、称賛と罵言、痴愚と英知、青春と老年、顔と尻、上と下など、対をなすものの逆転や転覆などのコントラストに満ち溢れていることに着目していたことを強調して、桑野は「カーニヴァルは交替するものではなくて、交替それ自体、つまり交替というプロセスそのものを祝う」のだと述べ、そこに消化と排泄といった内臓のイメージを重ねていきます。
これは身体のトポグラフィーの中心であって、上と下がたがいに移行しあっている。(中略)このイメージは、殺し、生み、食いつくし、食いつくされるアンビヴァレントな物質的・身体的下層にとってお気に入りの表現であった(同上)
今週のてんびん座また、自身のさまざまな「むさぼり食い」を通して、そこにいかなる「交替のプロセス」が進行しつつあるのか、改めて感じ直してみるといいかも知れません。
てんびん座の今週のキーワード
自己演出やブランディングなどはいったん脇において、直接的で生々しいへダイブすること





