てんびん座
脱・個性信仰
「南の方に向かって北方の星を眺めよ」
今週のてんびん座は、無名の人生への舵切りのごとし。あるいは、「自己からの救済」の伝統をふたたび手繰り寄せていくような星回り。
現代人はいったい何を根拠に自分の人生や他人の価値を決めたり、評価したりしているのでしょうか。例えば、近代合理主義の到来の火種となったプロテスタント的な考え方では、<私>を仕上げて実現することないし達成することこそが、生きるということの価値とされ、それが現代における「個性の重視」という考え方にもつながっているように思います。
ただ一方で、大衆にもてはやされるような個性的な<私>から逃れ去り、その滅却こそに価値があるとする考え方もあったはず。哲学者の山内志朗は、古来からの<私>をめぐる基本的思考は、「自己への救済」を求める枠組みと「自己からの救済」を求める枠組みの2つに大別され、それぞれに例外はあれど前者の典型がキリスト教であり、後者の典型が仏教なのだと指摘した上で次のように述べています。
哲学もまた、<私>への救済と、<私>からの救済という二つのベクトルを合わせ含んでいると思います。デカルト以降、「<私>への救済」モデルが主流になってしまいましたが、「<私>からの救済」というモデルは、東洋においてばかりではなく、西洋においても二大主流の一つになっていたと思います。「汝自身を知れ」とか「我思う故に、我あり」という格率だけでは不十分なのです。(『小さな倫理学入門』)
それは例えば、考える<私>は同時に<空>であるという感得であり、それはわたしがあなたであり、あなたがわたしであり、わたしが仏であり、仏がわたしであるような<私>を通じて宇宙創造が働くこととも言い換えることができるのではないでしょうか。
恐らく同様のことを、鈴木大拙は「心なきところに働きが見える」と言い、シモーヌ・ヴェイユはそれを好んで引用した「南の方に向かって北方の星を眺めよ」という禅の公案から広がる無心の世界に見出しました。
その意味で、9月3日にてんびん座から数えて「集合的であること」を意味する12番目のおとめ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、おのずと「<私>からの救済」のベクトルを追求していくことになっていくでしょう。
頭か、からだか
鎌倉時代の曹洞宗の開祖・道元の言行を弟子の懐奘の立場から伝えた『正法眼蔵随聞記』を開くと、「仏道を得るには頭や言葉で得るか、からだで得るか」という命題が繰り返し登場することに気が付きます。端的に言えば、これはそのまま今週のてんびん座のテーマとも通底していくように思います。
つまり、意識や「自己」というのは絶えず、物事や人生の意味や目的を問うけれど、そこで感じとる苦痛や快感、満足や没落といった概念を創り出しているのは誰かということ。
それは「自己」ではなく、その背後にある「外部(としての自己)」であり、すなわち理性や精神ではなく、肉体であるのではないでしょうか。
腑に落ち、身に覚えのあることだけが、「外部」ないし意志の直接的な代弁者として「自己」の喜びや満足や情熱を創り出していくのであって、決してその逆ではないのです。
その意味で、今週のてんびん座もうまく行けば、あなたの中で「自己」がだんだん消えていくにつれ、逆にだんだん強まっていく意志や確信を感じていくことができるはず。
てんびん座の今週のキーワード
最も身近で遠い自然としての肉体