てんびん座
砂上の楼閣から降りる
必然なんてないんだよ問題
今週のてんびん座は、安アパートにひとり眠る私娼・桃子嬢のごとし。あるいは、真に信じるに足るものは何かと考え、身をもってそれを実践していこうとするような星回り。
寺山修司がまだ戦後まもない頃合いだった自身の学生時代を振り返ったエッセイのなかで、次のように書いていました。
大部分の人たちは「必然」という妄想にとり獲かれ、シェストフやシュペングラーのかわりに、マルクスやエンゲルスの書物を枕もとに置いて眠るようになり、物質世界が私たちにもたらす変化の大きさに、目をみはるようになっていった。(…)たしかに、進歩発達という考え方は理性に裏打ちされた必然の思想である。だが、無限の可能性を提供する物理学が、ほんとうに、現代人を<神のごとくなりつつあるものの>祖先たらしめることができるものだろうか?(寺山修司『誰か故郷を想はざる』)
続けて寺山は、四畳半の安アパートでひとり暮らす私娼の桃子なる人物をとりあげ、彼女でさえ「日当たりのいいアパートに引越しさえすれば、あたしの性格は変わる」と思っており、「ヘアスタイルやモードの変革によって、魂にも新しい日常性が訪れてくるのだ、と信じている」のだと描写しています。
はてさて、科学の進歩だとか万物をつらぬく歴史的必然性といった話に、もはやほとんどの人が夢見られなくなってしまった現代社会に、もしその桃子がタイムスリップしたなら、同じことを信じて過ごすでしょうか。それとも、「あした必ず起こること」など存在しないのだと啖呵をきって、代わりに「あした自分の手で引き起こすこと」に賭け、幸運との取っ組み合いを始めるでしょうか。
6月21日にてんびん座から数えて「政治的駆け引き」を意味する10番目のかに座に太陽が入っていく(夏至)今週のあなたもまた、どんなアクションが「魂に新しい日常性」をもたらしうるか、よくよく考えてみるといいでしょう。
「陋巷に生きる」
「陋巷(ろうこう)」とは、狭い路地、また俗世間のこと。「陋巷に生きる」と言えば似た言葉として「零落する」という言葉もありますが、零落にはそれに伴う快楽に酔っているようなニュアンスがあり、「陋巷に生きる」というのは、そういう快楽をこそ甘受こそすれど、それに酔うのではなく、あくまで淡々と生きていこうとするようなニュアンスの違いがあります。
後者を自身の生き方の型とした人物に、例えば永井荷風(1879~1959)がいます。彼は高名な小説家の身でありながら、浅草の楽屋に行ってストリッパーたちと話すのを好んだり、私娼街を歩き回り、ごちそうもしみじみとした浅草あたりのとんかつ屋でとるなど、あくまで巷のなかに身を隠し、江戸庶民の世界に自身を浸そうとしました。とくに、最後は吐血して孤独死をするのですが、それは千葉・市川の小さな一軒家の六畳間で、脇には空になった日本酒の一升瓶が転がっていたそうです。
長く生きているとどうしても社会的地位や肩書きがくっついてきてしまいますが、人間にはイカロスのようにどんどん高みへ登っていきたいという気持ちと、重心に引かれて下へ下へと降りていきたい気持ちの、両方があります。そして今のあなたの場合、後者の、何にも持たない生まれてきたときの自分に戻り、大地に還っていきたいという方向性が強まっているのだと言えるかも知れません。
今週のてんびん座もまた、文明が前提とする必然性の手が届かないような「陋巷」との深い互酬関係の中に自分を沈めていきたいところです。
てんびん座の今週のキーワード
桃子と荷風