てんびん座
詩人の仕事
通過儀礼なう
今週のてんびん座は、「青春」の解放。あるいは、夢を巧妙に隠しておくことは、もはや大人の節度などでないのだと、改めて自身に言い聞かせていこうとするような星回り。
ぼくは20歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい。
これは20世紀フランス文学のなかでも最もよく引用されるであろう作品の一つである、ポール・ニザンの青春小説『アデン・アラビア』の冒頭の一節です。ここでは「20歳」とは青春を表すひとつの記号なのでしょう。
子どもから大人へと向かう過程で、決定的な通過儀礼や生涯忘れることのない痛くて切ない経験をさせられる過渡期のことを、人は青春と呼んでことさらに特別視してきた訳ですが、近年では少し事情が違ってきているように思います。
まだ「大人」ではないが「子ども」でもない、そんな「青年」特有の背伸びをすることなく、したがって大きく失敗することもない。現実や将来が「なんか見えてしまっている」という、冷めた認識が諦めとも倦怠感ともつかないまま、熱や高ぶりを抱くこともなく淡々とそこを通過していくように映るのです。
一日も早く「大人」になりたいと思う時代はとうに過ぎ去ってしまった訳ですが、その代わり、一定の社会人経験を経た後や定年後に大学や大学院に入り直したり、ずっと憧れていた夢や希望を叶えようする人というのも増えてきているのではないでしょうか。
「あの頃はよかった」という過去への虚飾や、まだ「大人」でない者に美しいイメージばかりを押しつけることで現在のみじめさを埋め合わせようという欺瞞は、今後はますます成り立たなくなっていくはず。
3月10日にてんびん座から数えて「通過儀礼」を意味する6番目のうお座で新月を迎えていくところから始まる今週のあなたもまた、みずからの「青春」は他ならぬ今や今後にこそあるのだという感覚を改めて深めていくことがテーマなのだと言えます。
小林秀雄の場合
僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、二十三歳の春であつた。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてゐた、と書いてもよい。向うからやつて来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである
これは小林秀雄による有名な『ランボオⅢ』(1947年)の書き出しですが、これは小林が古本屋の店頭でランボオの処女詩集『地獄の季節』の豆本と出会った時の衝撃を言葉にしたのだと言います。
なぜランボオはそれだけのインパクトと魅力を持ち得たのか。それは彼が作品だけでなく人間としても詩を生き切ったからでしょう。
19歳からわずか3年で膨大な数の詩を書き上げた後、彼は詩を捨てて旅の商人となり、最後はアフリカの砂漠で冒険家として生を終えたその鮮烈な生き様に、多くの人が詩の神髄を見たのだと思います。では、ランボー自身は詩やその使命についてどう考えていたのか。
間接的ではありますが、ある手紙の中で彼は「詩人は、その時代に、万人の魂のうちで目覚めつつある未知なものの量を、明らかにすることになるでしょう」と述べています。
今週のてんびん座もまた、かつて小林のように、惰性的なものに支配されてしまいがちな日常のなかで<未知なるもの>に目を開いていくことで、新しい自分を知ることができるかも知れません。
てんびん座の今週のキーワード
自分のうちで目覚めつつある未知なものを明らかにする