てんびん座
渇きを満たす
食の瞑想
今週のてんびん座は、プルーストの描いた朝早いパリの街頭のごとし。あるいは、洗練された生の充実の時へと誘われていくような星回り。
すぐれた映画や小説というものは、たいていの場合、印象的な食事シーンや食に関する詳細な記述を含んでいるものですが、それはあまりにも長大なことで知られているフランス文学最高の小説『失われた時を求めて』にも言えていて、例えば作者は主人公の恋人アルベルチーヌに、パリの街頭に聞こえる物売りに対して次のような嘆声を挙げさせます。
キャベツに人参、オレンジ。私のたべたいものばかりだわ。フランソワーズにそういって買わせて頂戴な。そして人参のクリーム煮を作ってもらうのよ。そしてそれを二人していただくの、いいわねえ。いま聞いている声がみんなご馳走にかわるようなものよ。
このフランソワーズというのは、主人公の家に長く勤めている腕利きの料理人で、彼女のおかげでどんな食材も瞬間的においしい料理に変換され、安心して舌なめずりすることができるのですが、その一方で主人公マルセルもまた窓外の肉屋を眺めては、大変に個性的な瞑想に耽っているのです。
その店では、のっぽで痩せた金髪の小僧が空色のカラーから頸をのばし、目の回るほど手早く細心の注意を払って、一方においしそうなヒレ肉を、もう一方には最下等の贅肉を選りわけ、それを上に十字をいただき、そこから美しい鎖紐が垂れているピカピカの秤にかける。それが実際は肉屋というよりも、最後の審判の日、天主のために善人悪人を品さだめして二組に分け、霊魂の重さをはかろうと支度している美しい天使のような印象だった(いずれも伊吹武彦訳)
同様に、16日にてんびん座から数えて「資産」を意味する2番目のさそり座で満月を迎えていくあなたもまた、そんなマルセルとアルベルチーヌの2人のように、縦横無尽な仕方で他ならぬ自分自身をとことん楽しませていくべし。
陳子昂(ちんすごう)の『幽州台に登る歌』
唐のはじめに生きた陳子昂は政府の役人であると同時に詩人であり、当時おこった北方の異民族の反乱への対応策を提出したところ、取り上げられるどころかむしろ身分を下げられてしまい、その無念さからこの短い詩を詠んだとされています。
前不見古人 前(さき)に古人(こじん)を見ず
後不見来者 後(のち)に来者(らいしゃ)を見ず
念天地之悠悠 天地の悠悠たるを念(おも)い
獨愴然而涕下 独り愴然(そうぜん)として涕(なみだ)下る
ここで言う前・後とは時間の流れのこと。前方に歩んでいったはずの先人の姿は見えず、後方から追いかけてくるはずの未来の人の姿も見えない。ひとりぼっちである自分は、天地の「悠悠」として永遠に微動だにしない姿に、思いを集中させる。そうしてたえず変化する人間である自分を思い、悲しみに打ち砕かれて、涙があふれる。
これはただみずからの不遇や不条理を嘆いていると言うより、もっと広く、人生全体、人間全体のついての感慨をうたい、それを繰り返し口ずさむことで、みずからの魂を現実とは別の仕方で満たそうとしたのでしょう。
今週のてんびん座もまた、これまで自分がどんな姿勢でこの世界と向き合ってきたのかということが自然と浮き彫りになってくるはず。起こった事実ひとつひとつに囚われるのではなく、なるべくその全体像をていねいに構築していきたいところです。
てんびん座の今週のキーワード
ソウル・メイキング