てんびん座
死ぬ練習
あえてひらがなの術
今週のてんびん座は、「黄のはなのさきていたるを せいねんのゆからあがりしあとの夕闇」(村木道彦)という歌のごとし。あるいは、死体ごっこをしていくような星回り。
学生運動が花盛りであった60年代半ばの昭和39年(1964)に、作者も含め若い世代の歌人を中心に編まれた冊子上に掲載されたのがこの歌。
ふつうの歌のように書けば、「黄の花の咲きていたるを青年の湯からあがりし後の夕闇」となり、掲歌を比べてみるとひらがながいかにも効果的であることが分かります。
眼前で「咲」いている「花」も、自身の姿である「青年」も、熱い「湯」も、気怠さとやりきれなさが漂っており、そこにはやはり当時の若者を取り巻いていた、どこか茫漠とした不安定さと奇妙な明るさのようなものが文体として表現されているように感じられます。
この場合「黄のはな」とは菜の花のことでしょうか。
それら花々と、上気した肌の作者をすっぽり包み込むかのように迫る夕闇がここでは強調されている訳ですが、それも当時の学生運動がその後過激化の末、連合赤軍事件を機に次第に停滞し、終息していったことを思うと、作者はそんな時代の流れの行く末をどこかで直感していたのかもしれません。
そしてそれは今週のてんびん座の人たちにも通底するテーマであり、作者の取るスタンスはそこでの指針ともなっているように思います。
かつて無知の知を説いたソクラテスは「哲学は死の練習である」と述べましたが、今週のあなたもまた自分がいまどんな死の気配に取り囲まれているのか、よくよく直感を研ぎ澄ませてみるといいでしょう。
ここぞというところで!
太陽を見つめ続ければ目が潰れ、照りつける陽射しが強すぎれば大地は砂漠と化すように、光というものは、一歩間違えれば自分や周囲に破壊的な影響を与えることになります。
ちょうどひらがなを上手に使った冒頭句の作者のように、明晰さや理想の力の象徴としての太陽は、案外何も生産的なものなど産み出さないぞ、という体でいるくらいが、案外ちょうどよかったりするのかもしれません。
死体ごっこの極意は、ここぞというところでこそ力を抜くことにあります。そんなことをどこかで念頭に置きながら、今週は肩の力を抜きつつ、日向ぼっこしていくくらいのつもりで過ごしていきましょう。
今週のキーワード
死体ごっこと日向ぼっこは表裏一体