しし座
幼な心を忘れない
即妙の呼応
今週のしし座は、とっさに指を立てあった老人と子どものごとし。あるいは、ここのところ心を支配していたしがらみから解き放たれていこうとするような星回り。
哲学者の上田閑照は禅の本質について述べた『非神秘主義─禅とエックハルト─』の冒頭に、「指を立てる」という実に興味深い体験について綴った文を置いているのですが、その一部を引用します。
「私の乗っていたバスがある停留所にきて止まったちょうどそのとき、反対方向からきたバスが向こう側の停留所に止まった。私がぼんやりそのバスを見ていると、窓ぎわに乗っていた子どもが三、四人、そんな私に気づいて、こちらのバスの私に向かって指を二本立ててVサインをしてきた。私の方もなにか応えたい気持ちが涌いて、しかしちょっとしたいたずら気も起ったのか思わず指を三本立ててサインを返した。すると、少年たちは迷った様子で顔を見合わせていたが、すぐにその中の一人の子どもが私に向かってこんどは指を一本を立てて見せた。そのとき、私の乗ったバスは動き出した。それだけのことである。だが、私はなんとなく愉快で、その日それ以後も繰り返しこの短い数秒の出来事が現れてきた。」
3本指にしても1本指にしても、そこに何か深い意味があったわけでないでしょう。ただ、普段から挨拶代わりによく繰り出していたVサインに対して、自分たちとは明らかに年代や世代や社会的立場が異なるはずの老人が即座に、枠から外れた反応を返してきた。それをみた子どもたちは、何を感じたのか。
おそらく、「ああ、目の前にいるのは自分たちと同じ子どもなのだ」と感じたのではないか。だからこそ、自分たちもまた真新しくグッと出てきたものを「即妙の呼応」として返してみせることで、互いにしかわからない仕方で認め合おうとしたのではないでしょうか。
そしてそれは、自己決定性とか自発性といった文脈から語られる近代ヨーロッパ的な「自由」とも異なる、見えないところでのとらわれやわだかまりが破れたところで感じられた「開かれ」としての自由ということと大いに関係しているように思います。
10月3日にしし座から数えて「遊び」を意味する3番目のてんびん座で新月(種まき)を迎えていく今週のあなたもまた、「この席空いてますか」と尋ねるくらいの軽やかさで自分の心を解き放っていきたいところです。
遠く遥かなる感覚
もともとは「同性間の非性的な関係」を表す語であった「ホモソーシャル」という言葉が今ほどネガティブな文脈で語られた時代はなかったように思いますが、その一方で男性たちの胸の内にはいつまでも疼いている少年期をめぐる淡い追憶と、胸ときめく危険への憧れとがこだましあっており、それは少女のそれとは決定的に異なる質感をもっているように思います。例えば作家の稲垣足穂は『少年愛の美学』において、次のように記しています。
女性は時間とともに円熟する。しかし少年の命はただの夏の一日である。それは「花前半日」であって、次回すでに葉桜である。(…)少女と相語ることには、あるいは生涯的伴侶が内包されているが、少年と語らうのは、常に「此処に究まる」境地であり、「今日を限り」のものである。それは、麦の青、夕暮時の永遠的薄明、明方の薔薇紅で、当人が幼年期を脱し、しかもP意識の捕虜にならないという、きわどい一時期におかれている。
いかにも既存の男女をめぐるエロティシズムを脱構築するような筆致ですが、ここで稲垣は大人への成長のはざまにある「少年」を「P意識の捕虜」以前の存在であると定義しており、大人同士のありふれた性愛にはない、何か特別なものをそこに見出していることが分かります。
「女心」がV感覚に出て、「男心」がP感覚に出て、「大人心」がVP混淆によるものならば、「幼な心」とはA感覚に出ているものでなければならぬ。
ここでいう「A感覚」とは、単に肉体的な意味でのA(肛門)の機能や用途うんぬんの話ではなく、「根源的遼遠におかれているとともに、遠い未来からの牽引」であり、「根源に向かって問いかけながら、それみずから感覚的超越として諸可能性の中に飛躍していくところの、遠く遥かなる感覚」なのです。
今週のしし座もまた、いわゆる「ホモソ」的でも、ありふれた性愛でもない、どこかA感覚に通じていくような他者との関わりがテーマになっていきそうです。
しし座の今週のキーワード
V意識/P意識の捕虜にならない