しし座
人間の薄っぺらさや滑稽さを味わう
恐るべき滑稽の極み
今週のしし座は、ドストエフスキーによる徹底的に薄っぺらくきな臭い人物描写のごとし。あるいは、一見するともっともらしいことが言えたり、妙に魅力があったりする人間の底の浅さを照らし切っていこうとするような星回り。
ドストエフスキーの大作『悪霊』には、大地の感覚から切り離され、生命に対する感性もなく、底の浅い考えではしゃぎまわる者たちが、とても覚えきれない数で登場してきますが、その中でもひと際味わい深い人物に、小心者の自由主義者ステパン氏がいます。
彼は主人公で『ちびまる子ちゃん』の花輪君を連想させる貴族の御曹司スタヴローキンの母親ワルワーラ夫人に寄生し、53歳にもなっていまだに家付き家庭教師として糊口を凌いでいる人物で、会話の端々にフランス語を交えるのが特徴。
生活感覚がなく、しゃべる言葉にはリアリティが欠けており、息子にも軽蔑されきっているのですが、20年の寄生生活にみずからピリオドを打とうと、旅に出る覚悟を固めた旨をワルワーラ夫人に告げるものの、夫人はまったく取り合いません。その際の夫人の言葉を引用してみましょう。
わたしにわかっているのは一つだけ、これがみんな子供じみた空騒ぎだということですわ。あなたはどこへも行きやしませんよ、どんな商人のところへも。あなたはね、わたしから年金を受取って、火曜日にはあの得体の知れないお友だちを家に集めながら、結局はわたしの腕に抱かれて安らかに息を引き取ることになるんです。(江川卓訳『悪霊』)
強い、強すぎる…。しかしこの強すぎるマザーであるワルワーラ夫人を絶対的な光源として、並みいる男性たちのみじめさ、底の浅さをどこまでも描き切っていくことこそがこの小説の真骨頂なのです。
12月5日にしし座から数えて「真実味」を意味する2番目のおとめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自身が照らされる側に回るにしろ照らす側を担うにせよ、人間の醜悪さと徹底的に切り結んでいくなかで、一度徹底的な救いのなさに沈んでみるといいでしょう。
真面目さという罠
例えば、箸と橋は同じハシという音でもまったく別ものです。ただし、音で繋がっているというだけでも、そこには「箸」というものがただ食事の際に使われる長さ数十センチの棒状の物体に過ぎないという機能的役割から解放され、自由になっていく可能性が開けているのであり、その自由が人の心を救うことだってあるのではないでしょうか。
何を荒唐無稽なことを、と思うかも知れませんが、それだけ人間の「真面目さ」というものが怖いものだということを伝えたかったのです。これは、現代の日本人が体や心から力を抜くのがどうにも下手で、窮地に陥るほどに力を入れてますます頑張ろうとしてしまうこととも似ているかも知れません。
「自分は真面目にやっているのだから大丈夫」が、「真面目にやっているのにどうして」に変わってきても、自分のやっていることをまだ自分の中だけに納めているうちは、なかなか真面目さというのは手放せないものです。ですが、自分が真面目にやっていることが、全然違うところで適当にやっている(ように見える)人たちと大して変わらないじゃないか、ということになってくると、途端に真面目さは壊れてくる。
なんだか自分が滑稽で、笑えてくる。この滑稽さということが大本になって、自分の中で地滑りが起きて、それが結果的にこころや身体を自由にしていく。今週のしし座は、そうした意味での滑稽味というのを、いつもより少し高い場所にたって味わっていくことができるかも知れません。
しし座の今週のキーワード
文明の果ての大笑い