しし座
野生馬と向きあう
おはなしの力
今週のしし座は、丸谷才一の『樹影譚』における仕掛けのよう。あるいは、みずからを小説的に励ましていこうとするような星回り。
村上春樹はアメリカの大学で戦後の日本文学をめぐる講義をまとめた『若い読者のための短編小説案内』のなかで、作家の丸谷才一について「反私小説的である」と評し、自分とは異なる登場人物をゼロから作って、それを“お話”のなかで生き生きと動かしてみせることで、それを語っている作者自身にある種の違和効果をもたらし、そこで生じるズレや落差の中に何らかの真実を見出さんとしていくのだと説明してみせました。
例えば、丸谷の『樹影譚』という小説について。①まず作者=丸谷が自己の世界を語り、②次に古屋という老小説家の作品や来歴について、さも実際にそういう人物がいるかのように語った上で、③いよいよ古屋を主人公としたストーリーが始まっていくという3部構成になっていること、とりわけ②のパートこそが肝なのだと強調します。ただその際、奇妙なことにその最重要部分は「いちばん流れがつっかえている―言い換えればあまりうまく書かれていない」部分であり、しかもあえてそう書かれているのだとも指摘しています。
僕は、作者はこのような作業によって、おそらく自らを小説的に励ましているのだと思います。もしこの部分になにかしら稚拙なもの、あるいは大人げないものが見受けられるとしたら、それらが作者にとって必要だったからでしょう。
6月21日にしし座から数えて「つきまとう影」を意味する12番目の星座で夏至(太陽かに座入り)を迎えていく今週のあなたもまた、息苦しい現実とのあいだに隙間をあけるべく、みずからの至らなさをある種の他人事として誰かに語ってみるといいでしょう。
臨終の友人のそばに座るように
村上が言及した「稚拙さ」や「大人げなさ」とは一体何だったのか。それは古屋という人物に象徴される非常にリアリスティックで整合性のとれた近代的主体につきまとう“前近代的な影”であり、非整合的で土着的な呪縛であり、丸谷はそれを作品内に練り込みつつ、きれいにまとまりすぎる人生理解に対する自身の葛藤をフィクションとして展開してみせたのです。
ここで思い出されるのが、名エッセイストで知られるアニー・ディラードが『本を書く』という本のなかで、本を書くという営みを喩えた次のようなくだりです。
私は本を書くというよりも、まるで臨終の友人のそばに座るように、原稿のそばに座って過ごす時間の方が長い。面会時間に、私は相手の不調に対する恐れと同情心で心をいっぱいにしてその部屋に入る。その手を握り、回復するように願う。
さながらドラマの展開のように、アニーはさらにこう続けます。
この優しい関係は、一瞬のうちに変わり得る。一日か二日訪ねなければ、やりかけの仕事はあなたに襲いかかってくる。やりかけの仕事はあっというまに野生に戻る。一晩で原始の状態に立ち返るのである。それは飼い馴らされたばかりで、先日、手綱を結んでおいたが、今や手に負えなくなってしまったムスタング(野生化した小型馬)なのだ。
そう、書きかけのままの原稿や創作した登場人物というのは、しばしば書き手の手に負えなくなる。そうなったときに思い切ってボツにするか、ごく一部のみをかろうじて残す程度に処置することができるのが文章家というものなのだとアニーは語ります。
その意味で、今週のしし座もまた、みずからの過去から生じた影にケリをつけるためにも、必要な処置をこなすだけの覚悟をもって臨んでいくべし。
しし座の今週のキーワード
小説を書ききる=人生に区切りをつけるために