しし座
風にまみれる
一陣の風としての霊感
今週のしし座は、「古代の哲学者たち」のごとし。あるいは、現代人としての自分らしさをひとつ放棄していこうとするような星回り。
20世紀を代表する思想家シオランは、古代の哲学者と現代の哲学者とには明瞭な違いがあり、後者は仕事机や書斎で哲学したのに対して、前者は庭園や市場、あるいはどこかその辺をほっつき歩きながら哲学したものだと想起した上で、次のように述べていました。
そして現代の哲学者たちよりも怠惰な古代の哲学者たちは、長いあいだ横になっていたものだ。というのも、彼らは霊感が水平にやってくることを知っていたからである。そんなわけで、彼らは思想の来るのを待っていたのである。現代の哲学者たちは読書によって思想を強制し、挑発する。そういう彼らの姿からは、瞑想の無責任性なるものの歓びをいまだかつて知ったこともなく、そのさまざまの観念を企業家はだしの努力をもって組織したのだ、という印象を抱かせられる。(『思想の黄昏』)
ここに一言加えさせてもらうならば、古代と現代の哲学者たちを分かつものに「闇の深さ」も挙げられるはず。書斎や読書で哲学が可能なのは、電気が発明され普及していったためであり、それが「哲学する」ということをより“勤勉”にし、そこで増しに増した生産性の分だけ「霊感」からは遠ざかったのだとも言えるのではないでしょうか。
その意味で、12月30日にしし座から数えて「自己同一性の危機」を意味する9番目のおひつじ座で上弦の月を迎えていく今週は、古代の哲学者たちになりきって、「霊感が水平にやってくること」、「思想の来るのを待」つことに徹してみるといいかも知れません。
か身交ふ
先の「霊」とは、「吹く」という動詞を語源とするギリシャ語で「プネウマ」のことであり、より一般的には「風」や「風のような私を構成しているエネルギーの流れ」とも言い換えられますが、これは一見すると不思議な感覚に思われるかも知れません。ただ、これも「哲学」することの本質に立ち返ってみると、至極当然のような気もしてくるのです。
例えば、「考える」という日本語は「か身交ふ(かむかふ)」から来ていますが、最初の「か」には意味はなく、身をもって何かと交わり、境界線をあいまいにしていくことで、そこに新たな思考を生みだしていく、という意味がありました。
車の行きかう音や鳥の声、葉のそよぎに、月から漏れる柔らかな音楽。そういうものを見たり聞いたりしながらほっつき歩いているうちに、外なる自然と内なる自己が交わって、親密な関係となり、そこでひとりで部屋の中で考えているだけじゃ思いつかないようなことが引き出されていく。
媒介としての身体と、風のようにゆらめく私。つむじを巻いては風にのってどこかへ吹き抜けていくとき、その風は身体を通して交わった者の思考をいつの間にか別次元へと連れ去っていくはず。今週のしし座も、ひとつそんなことを念頭に過ごしていきたいところです。
しし座の今週のキーワード
「どこ吹く風」になっていく