しし座
扉としての絶望
「社会」とその向こう側にある「世界」
今週のしし座は、『リリィ・シュシュのすべて』の蓮見と星野のごとし。あるいは、より純粋なものへ向かった十代の頃の感情的記憶がぶり返してくるような星回り。
岩井俊二監督『リリィ・シュシュのすべて』(2001)は、観る者のあまり思い出したくない思春期の記憶を次々と惹起させるという意味で、あまり冷静に見ることを許さない作品と言えます。
あらすじとしては、平凡な蓮見と優等生の星野は中学で親友となるも、夏休みに仲間たちと一緒に行った沖縄の離島で星野が溺れかけ、頭を割られたバックパッカーの死体を目撃する体験を経て、関係性が変わっていきます。完全に脱社会化してしまった星野は、番長を殴り倒して代わりにその座について恐怖政治をしき、配下にカツアゲや売春をさせるようになり、蓮見が思いを寄せる同級生や蓮見自身もその対象となってしまいます。
そして、こうした学校での物語に、ネットの物語も並行していき、蓮見は「世界を満たすエーテルを音楽にした」リリィ・シュシュのファンサイト「リリフィリア」で出逢った別のファンとチャットで意気投合し、交流を深めていく。しかし、リリィ・シュシュの1stコンサートで青林檎を目印に約束場所で待っていたその相手は、なんと星野だった。またもや虐待された蓮見は、星野を群衆に紛れて刺殺してしまう。その後、蓮見は一見平穏無事な学校生活に戻ったかのように見えたが―。
この映画ののっぴきならないリアルさは、学校問題への綿密な取材などではなく、監督が記憶の中の学校、その匂いや光を徹底的に描いているがゆえのものなのですが、だからこそ、星野のように脱社会化した存在になりきれずに社会に留まってしまった監督自身の自問自答に、観客の側も思いがけず引きずり込まれ、1つの問いへと直面させられていきます。なぜ自分は蓮見でしかあり得ず、星野へと突き抜けられないのか、と。
同様に、18日にしし座から数えて「底抜け」を意味する12番目のかに座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、大人になるにつれて、いつしか忘れていた「世界」の手触りを不意に思い出していくことになるかも知れません。
影おに
人間というものはすべて、どんなに洗練されているように見えても、必ずどこかに太古的なものを引きずっており、時に自分でもどう処理していいか分からないような暗い影が差し込んでくるものです。
そうした暗闇にふとした拍子に包まれた星野のような人間は、得てしてそれを受け止めきれずに、まだ光の側に留まっている者を引きずりこもうとしてみたり、自分が見た悪夢を打ち消そうと完全な明るさに満ちた別の像を夢見ていく傾向にありますが、それは映画の星野がそうであったように、終わりなき屈折と錯覚の始まりなのだと言えます。
心にはまだ発達可能な太古的無意識の「残り」がありますが、それがどれだけの規模なのかは、誰にも分かりません。人はなぜ理性的に振る舞えないのか。善のみ行わず、悪を為すのか。愚行を繰り返し、最善の意図を見失うのか。そして、なぜどこまでも自分に満足できないのか。今週のしし座は、改めてこうした問いに立ち返っていくことでしょう。
しし座の今週のキーワード
扉の外で流れる「世界」の調べ