しし座
もはや人間じゃない
身は滅びてもなお
今週のしし座は、『十万年のちを思へばただ月光』(正木ゆう子)という句のごとし。あるいは、どこか悲しい眼で遠い未来から現在を見返していくような星回り。
そもそも、10万年のちに人類はいるのだろうか。この壮大でありながら素朴な問いかけに作者は「ただ月光」と答えるのです。
何千年、何万年にわたって、同じ人間同士のみにくい争いをやめることはおろか、自分たちの共通の基盤である地球を破壊し続けることすら止めることのできない愚かな人類の行く末に、滅びや廃墟を幻視する人は少なくありません。
しかし、もし文明の灯りが燃え尽きたとしても、月は依然としてこうこうと地球を照らし続け、あらゆる生命の生長と出産を促すリズムを刻み続けるはず。仏教において、月光が仏の智慧の比喩とされ、菩薩の青白いまなざしのメタファーとされたのも、「十万年のちを思」うような視点に立てば、ごく自然なことなのかも知れません。
一方で、アポロ計画終了から40年以上停止していた月探査の機運は、昨今また急速に高まってきており、10年以内には有人月探査が再開され、日本人宇宙飛行士も月に降り立つものとされています。そうなれば、月から地球を見て俳句を詠む人も出てくることでしょう。すなわち、み仏のまなざしと自分のそれとを一体化させられる日もそう遠くないわけです。
その意味で、9月18日にしし座から数えて「中長期的なまなざし」を意味する11番目のふたご座で形成される下弦の月へと向かっていく今週のあなたもまた、自分個人の人生を超えて、現に関わっている世界の未来をしっかりと見据えていくべし。
伊藤亜紗の「植物の時間」
私たちは、社会の行く末を考えるにも、人生の未来を計画するにも、ついつい「人間的な規格」という前提に基づいて考えてしまう傾向がありますが、現代というのは世界のいたるところでそうした発想そのものの機能不全が起きている時代なのだと言えるのではないでしょうか。
その点、『ひび割れた日常』というリレーエッセイ集に寄稿された伊藤亜紗の「植物の時間」というエッセイの中に、次のような印象的なくだりがありました。
先日、同僚の植物学者がしみじみ語っていた言葉に衝撃を受けた。「植物には、なぜそんなことをしているのか分からないことがいっぱいある」。要するに、人間の目からすれば無駄にしか見えないことが、植物にはいっぱいあるのだ。(中略)植物は自分で環境を選べないから、変化に対応できるように可能性をたくさん用意している、ということなのだろうか。いや、それもたぶん人間の目から見た見方だ、とその同僚は諫める。人間はつい、あらゆることに合理的な意味があると考えてしまう。でも、たぶん自然はそんな風にはできていない。
その意味で、今週のしし座もまた、菩薩や植物たちの存在にあやかって、できるだけ人間視点から離れていくことが大きな課題となっていきそうです。
しし座の今週のキーワード
偶然性や無駄のもたらす可能性を大切に