しし座
運命は絶えず変化していく
聖人かつ野獣、野獣かつ聖人
今週のしし座は、『オイディプス王』に施された巧みなドラマ展開のごとし。あるいは、まったく相反する2つのものを自身の中に見出していこうとするような星回り。
古代ギリシャ悲劇の最も有名な作品として知られる『オイディプス王』において、主人公であるオイディプスはまずドラマの始めにおいて流れ者の外国人として登場し、そのすぐれた知力と洞察力でスフィンクスに課された謎を解き、テバイを救ったことで国家の君主となる訳ですが、その一方で、自分ではそうとは知らずに父を殺し、母と近親相姦するという罪を犯してしまったことで、ドラマの後半には人間社会の汚れの源であり、おぞましい存在として追放され、孤独な「アポリス(ポリスなき存在)」となり果ててしまいます。
とはいえ、オイディプスが犯したとされる罪は、いずれも状況に強制されてそれをしているのであって、オイディプス本人に道徳的に落度はありません。このことについて、ギリシャ学者のヴェルナンは「神的因果性」という言葉を用いて、すなわち、神々の呪いとも言うべきある種の運命に巻き込まれてオイディプスは行為させられたのだと説明すると同時に、ギリシャ悲劇の魅力は「神的因果性と人間的因果性とが混じり合うことはあっても決して混同されない」点にあるのだとも述べています。
つまり、確かにオイディプスは運命の被害者ではあるが、その不幸な運命を成就させたのは、最後の最後に自分で自分の目を潰したのは、他でもない本人の意志であり、そうであるがゆえに、その不幸を通して神聖さを付与され、彼の汚れは恐るべき宗教的な力の源泉となって、聖化された聖なる人物となっていくのです。
同様に、14日にしし座から数えて「ドラマ」を意味する5番目のいて座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、「聖人」と「野獣」という二重性のあいだで揺れ動くオイディプスの運命を描き出した詩人のごとく、矛盾した性質の一致点をいかに自身の人生において見出していけるかがテーマとなっていくでしょう。
希望の器官としての記憶
オイディプスという人物は、それ自体がどこか自問自答し続ける人間の苦悩を象徴しているようなところがありますが、そこには「してしまったことは仕方ない」「取返しはつかない」など、過去を変えることはできないという一般的な見解が存在します。
もし本当にその通りなら、真面目な人であるほど何度も心を針で刺されるように過去に苦しめられ続けることになる訳ですが、過去が未来と結託して現在を育て、それが記憶において起きていくのなら、記憶とは単に人間を苦渋に苛む神さまからの残酷な贈り物ではなく、希望の器官としての役割も担っていると言えるのではないでしょうか。
例えば、過去の恋人の不可解な行動が、たまたま後に恋人と別れの伏線となっていたことに気付いたとき、過去はその相貌を決定的に変化させていきます。つまり、過去の出来事は未来との関係において、同じ出来事として存在し続ける訳ではなく、両者を結びつける意図や物語が立ち現れたとき、その姿をあらためるのです。
とはいえ、一方で私たちは未来と関わることがとても苦手です。なぜか。それは、過去の苦しみに対して「なぜ?」と問うことなく、都合よく忘れ去ってしまおうとするから。
その意味で、今週のしし座は、オイディプスがそうしたように、未来に視点を置きつつも、過去や進行形の現在に「なぜ?」と理由を問えるだけの勇気を奮い立たせていくことがテーマとなっていくことでしょう。
しし座の今週のキーワード
問い返す勇気