しし座
変調か、回復か
生の実感への渇望
今週のしし座は、「今」という字が分からなくなった宗助のごとし。あるいは、必然だと思っていたものが単なる偶然に過ぎないことに気付いていくような星回り。
夏目漱石の小説『門』の冒頭には、主人公の宗助がゲシュタルト崩壊に直面して精神の変調と結びつける場面が出てきます。
宗助は肘で挟んだ頭を少しもたげて、「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。「何故」「何故って、いくら易しい字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分からなくなる。この間も今日の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違った様な気がする。仕舞には見れば見る程今らしくなくなって来る―御前そんな事を経験した事はないかい」「まさか」「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
この後、宗助は細君に「あなたどうにかしていらっしゃるのよ」なんて言われて、いよいよ居ても立っても居られなくなってしまうのですが、こうしたそれまでなんとなく無意識によりかかっていた意味の「かたち(ゲシュタルト)」が崩れ、単なるバラバラの線や記号の集合に変わってしまう現象はそう珍しいものでも、ネガティブなものでもありません。
というのも、それは例えば「今」という“感じ”がすべて言語的な記号に変換されてしまう事態への反動であり、生きているなまなましい実感への渇望の現われでもあるからです。
同様に、17日にしし座から数えて「変幻自在」を意味する3番目のてんびん座で満月を迎えたところから始まっていく今週のあなたもまた、どこかで固まりかけていた意識や現実をゆるゆると解放させていくことになるかも知れません。
人は「成長」などしない
人間のこころというのは、ほんとうに発達心理学が提示する成長モデルのように直線的な発達を遂げるものなのかと考えてみるとき、例えば「三つ子の魂百までも」という諺のように、私たちは別のモデルやイメージにも自然と親しんでいることに気が付きます。
環太平洋地域には昔から、子どもの魂に祖父母や曾祖父母の魂との同一性を見出すという伝統がありましたし、現代では常識とされている、人は家族の一員である以前に「個人」であるという発想もまた、根拠をさぐれば案外もろいものなのかも知れません。
その意味で、今週のしし座はいつものように「立派なわたし」、「人にほめられて然るべき自分」といったアイデンティティを強情に保ち続けようとすると、キツくなってきてしまう可能性が高いでしょう。
ただ、それは逆に言えば、そういうものにこだわるこころををいったん外すことさえできれば、いつまでも社会化されることを免れ、永遠に「成長」などせず、老いているんだか子どもなんだか、個人なんだか集団なんだかよく分からないような「無理のない自分」に立ち返っていくことができるはず。
しし座の今週のキーワード
不自然な幻想と距離をとる