しし座
頭ではなく手先で物語ること
手わざと織物
今週のしし座は、指先でドゥー・サムシングしていくような星回り。あるいは、すっかり分離してしまっていた頭を手元とを繋げていくべし。
自然を扱うとき、「エコ」とか「環境」などと“概念”で言ってしまうようになったのは一体いつの頃からなのでしょうか。少なくとも、レオナルド・ダ・ヴィンチやパウル・クレー、狩野派の絵師たちであれば、同じことを精緻な観察とそれを実現するだけの“技術”=手技でもって目の前に具体的に示してみせたはず。
つまり、近代人は「自然」と言うと、「ネイチャー」だとか「母なるもの」だとか、そこに何かしらの“本質”があるものとすっかり思い込んでしまう訳ですが、自然を扱うだけの技術を持っていた人たちからすれば、自然とは例えばフラクタル図形のような破片の集積でできていて、いわばデジタルだった訳です(デジタルの語源は「指」を意味するラテン語)。
流動している織物のような自然を、同じく異質の織物としての感覚器で触れた、境界面で作り出される造形のひとつひとつこそが自然であって、それは「自然」という翻訳語が明治期に入ってくる前は山川草木という固体を言い表していたこととも繋がっているのでしょう。
29日にしし座から数えて「物語」を意味する3番目のてんびん座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、“指”や“手”から離れたところで何かを語ろうとするのではなく、あくまでそれを運用する“技術”の中で語っていくべし。
客観写生という技術
例えば、俳人の飯田龍太は、写生という手法の要点は「見つめて目を離さない」ことにあるのだと述べていました。つまり、見つめて、心のなかで普段は感じることのない別途の実感が湧いてくるまで目を離さない。
春の野を見てそれを描写するのでも、パッとそれを見て瞬発的に「うららかな」とか「初々しい」といった言葉を借用してくるのでは、とても写生とは言えないでしょう。
例えば、「吾(あ)も春の野に下り立てば紫に」と詠んだ星野立子のように、実景を目を細めて眺めているうちに、単なる視覚だけの紫ではなく、春の野全体から感じられる心理的な感覚をそっとのせた言葉というのは、読む側としても描写が鮮やかに目に浮かんでくるものです。
その上で、「吾(あ)も」と詠いだすことで、一本のこころの調子が句のなかを走り、全体を高いものにしてくれる。これも自然を向こうにまわし続けてきた俳人としての確かな“技術”なのだと言えます。
今週のしし座もまた、これはと感じた対象を前にした際には、日ごろ絶え間なく続く思考をいったん止め、いかにみずからの技術を持って向き合っていけるかどうかが問われていくでしょう。
今週のキーワード
境界面で作り出される造形としての断片自然