しし座
太陽は日々新た
しずかに坐っているだけ
今週のしし座は、「死神の目をのがれつつ日日裸」(清原枴童)という句のごとし。あるいは、いよいよ本領をあらわにしていくような星回り。
作者は師の高浜虚子の斡旋で朝鮮半島に移住したり、福岡に帰ってきてからも家庭的な幸福に恵まれず、空襲で家を焼かれたりと、流転多き不運な人生を送った人で、老いてなおそうした苦労のあとが句にも残っているところがあったようです。
そんな作者の晩年の句の中にあって、掲句はどこか堆積したかなしみの底がスッと抜けたような不思議な明るさを感じさせます。「死神の目をのがれつつ」、その隙をうかがって鋭く反撃に転じるのではなく、ただ「日日裸」であるという。
それは単に無防備であるというより、いたずらに自己を主張したり、みずからの人生観を誰かに押しつけることも必要なく、ただしずかにこうして坐っているだけで十分である、という作者が得たひとつの到達でしょう。
それは枯れた弱弱しい孤独の奥に潜む、何物にも侵されることのない生命の充溢(じゅういつ)へのまなざしに他ならず、句を通して読む人を自然にそこへ連れ出してくれるような軽やかさがあります。
15日にしし座から数えて「再誕」を意味する5番目のいて座で今年最後の新月を迎えていくあなたもまた、小手先ではなくもっと本質的なところから自分自身を表現していくとっかかりをつかんでいくことがテーマとなっていきそうです。
「ハナシは人なり」
昔の落語家や話術家などは、若い時に「クサい芸だキザな男だ」(徳川夢声)と言われるようでなければ、大成するものではない、という説をまともに浴びせられてきたものでした。
クサいもキザも、どちらも個性が強烈に匂い立ち、どこか異様な光を放っていることの裏返しであり、例えば明治落語の名人・三遊亭圓朝なども、若いときは通から見るとやりきれない代物と評価されたものでしたが、晩年は淡々たる境地に入って「ハナシは人なり」を体現した大人物へと成っていきました。
逆に、嫌われもしない代わりに、好かれもしないという芸人もたくさんいますが、こういう人は個性が弱いのであって、やはりいくら時間が経っても人気者とか大看板とかには永久になれません。
もちろん、他人から好意を持たれるに越したことはないのですが、それをあえて「聖人たれ」などとは誰も言われてこなかった訳です。そういう意味では、今のSNSや言論におけるポリコレ的風潮はその逆の方向に傾いているように感じられます。
獅子座であれば、やはりどんな世にあってもスケールの大きさを忘れずに持っておきたいところ。
今週のキーワード
病んで嫌われてナンボ