しし座
綾を織りなす
可能体としての種子
今週のしし座は、「生きることは「出会うこと」です」という寺山修司の言葉のごとし。あるいは、小さき火を消しより「大なる光」を輝かせんとするような星回り。
人は、自己のうちに抱く「小さき火」をつい凝視してしまうがゆえに、その彼方で燦然と輝く「大なる光」の存在に気付かず、大いなる迷妄の渦の中に巻き込まれてしまう。
人をそうした迷妄の渦(仏教ではこれを「無明」と言った)から救うのは、いつだって誰かと「出会うこと」だろう。
耳で聞き、目で見た誰かの言動、心の動きさえ、その痕跡は“種子”となって私たちの中に堆積していく。そして、どんなに瑣末に、無意味に見えたとしての、それらの種子は、やがてあなた自身の言葉となって咲き、実り、また新たなる種子となって拡散していく。
新たなる言葉への可能体としての種子、そしてそうした種子は、「小さき火」を消すことで初めて作られ得る。では、そのために私たちはどんなことをすればいいのか。寺山修司は冒頭の言葉にこう続けます。
「旅をしてみる、新しい歌を覚えてみる、ちょっと風変わりなドレスを着てみる、気に入った男のことキスしてみる、失恋もしてみる、詩も書いてみる―一つ一つを大げさに考えすぎず、しかし一つ一つを粗末にしすぎないことです」
おそらくその過程で、あなたは誰かに突破されて変わっていくし、それを見た誰かもまた変わっていくだろう。それが、人と人とが出会うということ。
25日(土)にしし座から数えて「他者との出会い」を意味する7番目のみずがめ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、ちょっとした怖れを手放して「出会うこと」にさっと身を委ねていけるかが問われていくことだろう。
交流を味わう
ひとりの人間が生きていくには、その下で様々な人の運命の交錯と助力が必要不可欠です。しかし、そこで交錯していく相手が結局どんな人間なのか、どんな運命なのかは、みな掴み切れないまま、うすぼんやりとしている訳です。
そのことを真面目に考えすぎると、なんだか気味が悪くなってくるかも知れません。けれど、そもそも他人なのですから、理解できてなくて当然なのだとも言えます。
ひとりの人間が自分の運命について語りだせば、その親や祖父祖母、兄弟姉妹、友人、恋人、同僚、上司、顔も知り程度の知り合いなどが、さまざまにその人の像を浮かべ始めます。
今ひとつ掴み切れないのは当然のことながら、この世に生きているということの醍醐味は、そうやって生きた交流を通して、互いの運命を紡ぎあいながら、少しずつ明確になっていくことにあるのだとも言えます。
今週はできるだけユーモアとシリアスのあいだに立って、そうした生の醍醐味を味わい、寄り添っていく時でもあるのだと思います。
今週のキーワード
合縁奇縁