しし座
自我の消尽
砂漠に咲く花
今週のしし座は、存在の砂漠をゆくラクダのごとし。あるいは、おのれの中に灯る「小さな火花」を見出していこうとするような星回り。
宗教というものはある程度発達してくると、仏教のような「自己からの救済」を目指すか、キリスト教のような「自己への救済」を目指すかのいずれかに分かれると言われています。
ただ、キリスト教の神秘主義などには自己の滅却や解脱に近い概念が存在し、それが目指されつつも、同時に個別的な魂や個としての自我のようなものも残すべきという複雑な立場になってきます。
例えば、中世ドイツの神秘思想家・エックハルトなどがそうで、彼は「人間を偉大という街に運ぶラクダは、苦悩という名前を持っている」と述べ、どんな人でも徹底的に自分自身を捨て去らねばならぬと考えた一方で、たとえそれができたとしても「魂の内にあり、創造されることのない、創造することのできない光」すなわち「小さな火花」のごときものは残るとも述べています。
もし今あなたが、思うような結果が残せていなかったり、必要十分なほど人から認められていなかったとしても、「誰も住まいするもののないこの最内奥においてはじめて、この光は満ち足りる」のだということをどうか思い出してほしい。
自分というものが消え入りそうなほどに「個=孤」の根底に入り込んでいった時ほど、「小さな火花」を見出す最良のタイミングなのですから。
無知への回帰の果てに
その点で思い出されるのは、孤独な無国籍者(自称「穴居人」)として、人間の業をたじろぐことなく凝視した哲学者エミール・シオランです。
彼は『悪しき造物主』というエッセイ集の「扼殺された思い」という章の中で、生まれついての自己の限界に戻った時の様子として次のように述べています。
「横になり、目を閉じる。すると突然、ひとつの深淵が口を開く。それはさながら一個の井戸である」
心の中に潜む、憎しみや残酷さ、依存心。そういうものについて私たちが「見せかけ」や「にせもの」などと呼ぶことがないように、目を向ければ向ける程、じつに深い根をもって私たちの中に巣食っていることが分かってきます。
もしあなたがいま何かしら悩みや負担を抱えていて、自らを救済したいと思っているのなら、改めて無知への回帰を果たすことによって、自己の限界を立ち戻らなければなりません。彼は先の一言の後にこう続けます。
「その中に引きずり込まれて、私は深遠に生をうけた者のひとりとなり、こうして、はからずもおのが仕事を、いや使命さえも見出すのだ。」
今はいたずらに先を急ぐのではなく、すこし自分を落ち着かせて、その内奥でうごめくものを改めて見つめ直していくといいでしょう。
今週のキーワード
自己への救済