ふたご座
ふと湧き出してくるもの
蛭が二匹
今週のふたご座は、『杖の尖(さき)洗へば泳ぐ蛭二匹』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、寝た子がふっと起きあがってくるような星回り。
なんとも言えない怪しさがただよう一句。「杖」というと遊行僧が持つ行脚のお伴であり、師から授かる教えの象徴であり、自分自身の分身ともいえる宝具ですが、ここではそんなもう一人の自分に思いがけない展開が生まれていきます。
すなわち、どこかへ行って帰ってきた際に、杖を洗っていたら蛭(ひる)が2匹出てきて、水の中を泳いでいたと。まるで魔術でも使ったかのようですが、蛭は用意した桶の水の中にたまたまいたか、杖にくっついていたのかも知れない。とにかく蛭に気付いた瞬間、作者には驚きはしたものの、どこかで「さもありなん」とも感じていたのではないでしょうか。
それは蛭が1匹でもなく、3匹でもなく、感覚的にちょうどいい「2匹」だったから。つまり、隠れ潜んでいたものの数として、ちょうど“思い当たる節”があったということ。それが、ふと気がゆるんだ拍子に飛び出し、浮上してきた訳です。
それは獅子身中の虫か、自分では想像だにできなかった盲点か。それとも、周囲をあっと驚かすいたずらなのか。
5月26日に自分自身の星座(生命力の源)であるふたご座に拡大と発展の木星が約12年ぶりに回帰するところから始まった今週のあなたもまた、思いがけなさと必然性とが相半ばする形で、自分自身についての再発見が起きていくはず。
己れが人間であることのおぞましさを
ここで思い出される言葉に、「佛の教えは毛穴から」というものがあります。これは作家の車谷長吉が30歳の時に東京で身を持ち崩し、無一文で郷里へと逃げ帰った時、実際に母親に言われた一言なのだとか。言われた当時はピンとこなかったそうですが、その後9年間にわたり住所不定で関西各地のタコ部屋を転々とする日々を送るうち、少しだけ身に沁みてきたのだと。
佛の教えというのは、えらい人が書いた佛教書を読めば「目から」入るのでもなければ、高名な坊さんの話を聞いて「耳から」入るわけのものでもなく、日々、骨身を砕いてその日その日を生きていれば、ある苦さとして「毛穴から」沁みるということである。(…)佛への信仰とは、己れが人間であることのおぞましさを、全身の「毛穴から」思い知った、その先にあることではないか。言うなれば、自己の中の悪に呪われた「生霊のうめき」のようなものではないだろうか。(『業柱抱き』)
そして、車谷は百姓として過酷な農作業に従事してきた母親の、「えらい目に逢うたら、佛の教えは毛穴から沁みる。うちは生きて極楽浄土を見るがな。」という言葉でエッセイを締めくくっていますが、それは彼女たちのような百姓は「日に日に田んぼでえらい目に」逢っているからということなのでしょう。
今週のふたご座もまた、自分が日々何を毛穴から沁みさせているのか、改めて振り返ってみるといいでしょう。
ふたご座の今週のキーワード
生霊のうめきを解き放つ