ふたご座
広場と孤独
口から出るものが問題だ
今週のふたご座は、悪のリアリティの賦活。あるいは、どんなに小さな共同体にもしのび寄り、なにげない仕方で現れる悪を看破していこうとするような星回り。
現代の日本社会では人びとがますます実証主義の枠から外れた情報を扱うのが苦手になってしまって、良くも悪くも超越的なものに遭遇したり、目に見えない世界に接することに免疫がなくなってしまったように思います。
そうした傾向について、作家の佐藤優と美学者の高橋巌は『なぜ私たちは生きているのか―シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話―』という対談本の中で、「悪のリアリティに鈍感になっている」という言い方で指摘していました。それは個人の内面の話だけでなく、宇宙全体の中にも悪の要素というのは働いていて、それが出会いや縁など人間関係にも作用しているということなのですが、これは具体的な文脈でないとなかなか伝わらないでしょう。以下に2人のやりとりを少し引用してみます。
佐藤 ちょっとした会話から悪が生まれ、それによって人間が変わってしまう。言葉というのは怖いものなのです。聖書にも、何を食べたら罪になるかを心配している弟子に、イエスが食べ物は心配ない、口から出るものが問題だと伝える場面があります。悪は言葉から出てくるけれど、人間は言葉なくして生きていくことができない。でも善も、言葉から生まれてくるわけです。(…)
高橋 悪を通して善を実現することは、私にとっての大問題なのです。(…)「悪を通して」を「限界状況を通して」とも言えるのではないでしょうか。いずれにしても、最終的には言葉の問題だということはよくわかります。この言葉の問題は召命でもあるのですね。
佐藤 そうです。突然やってくる召命に対して応えるか拒否するか、言葉で対応するしかありませんから。ただ言葉を重視するというのは、西側の考え方ではあるのです。言語ではないやり方では瞑想というのがありますが、自意識が肥大化している状態であるのに悟りを得たと勘違いしてしまう危険性があります。これでは、言語化しても私的言語になってしまう。ヴィトゲンシュタインが言ったように、私的言語では成立しません。二人以上の人がいて、一定の共同主観性のあるなかでしか言語は成立しえないですから。
高橋 言葉は共同主観性のなかでしか成立しない、つまり共同体がなければ成立しないということを大切にしたいと思います。ヨハネ福音書の冒頭に、「言(ことば)のうちに命があった」とありますね。命のなかには善だけでなく悪が入っている。だから言葉によって神が現われたり、悪魔が現われたりもする。
つまり、困難で命がけの状況になればなるほど、自分一人でいるのではなく、言葉が成立する他者と共にいることが重要になり、そこにこそ悪があり、逆に言えば神様がいるのだということ。その意味で、4月9日にふたご座から数えて「社会への参加」を意味する11番目のおひつじ座で新月(皆既日食)を迎えていく今週のあなたもまた、まさに「言葉によって神が現われたり、悪魔が現われたりもする」さまを目撃していくことになるはず。
秘密と予感
おそらく人が何か大事なことを解りかける時というのは、すべからく孤独なのではないでしょうか。
つまり、安易な交わりで自分と他人をごっちゃにしてしまうことが間違ってもないような、冬の寒が明けてもなお残る余寒のようなものを不意に肌で感じる時に初めて、目に見えない真の交わりへと開いていくことができるのではないか。これについてユングは最晩年に刊行された『ユング自伝―思い出・夢・思想―』において、次のように言及しています。
われわれがなんらかの秘密を持ち、不可能な何ものかに対して予感を持つのは、大切なことである。それは、われわれの生活を、なにか非個人的な、霊的なものによって充たしてくれる。それを一度も経験したことのない人は、なにか大切なことを見逃している
ユングからすると、人からもらう滋養とは、どこかの時点で自分だけの秘密にならざるを得ないものであり、悪と向き合っていくとは、少なからずそういうことなのでしょう。今週のふたご座もまた、そうした自分(たち)だけの秘密とより開かれた社交とのはざまにすすんで立ちすくんでいくべし。
ふたご座の今週のキーワード
孤独の中で気付いたことを広場の交わりで実践していくこと