ふたご座
正しさを超えて
戦時猛獣処分
今週のふたご座は、『象の背を箒で掃いて終戦日』(大木あまり)という句のごとし。あるいは、都合よく忘れてはならない思いや記憶をそっと汲んでいこうとするような星回り。
夏休みの動物園での何気ない一幕を描いた一句。飼育員が箒(ほうき)で掃く象の背からは、乾いた塵が舞い立ち、それが日の光のもとできらきらと輝き、その一瞬どこか時間が止まったように感じられたのでしょう。
戦争末期、動物園には空襲による火災などで猛獣が逃げ出して被害を及ぼすのを防ぎ、また食料にするために猛獣の殺処分が命じられました。特に有名なのは、上野動物園での3頭のインドゾウの処分でしょう。
飼育員らはなんとか救ってやりたいと他の動物園への譲渡など処分回避の方策を検討したものの、結局は餓死による処分が下されたそう。それも、当初は餌に毒を混ぜた薬殺が試みられたものの、繊細な象はそれを受け付けず毒薬の注射にも失敗し、やむなく餓死という苦渋の選択がとられたのだそうです。
時代の要請に応えての、当時の状況としては“正しい”対応だったとは言え、掲句には敗戦という歴史の転換点に対する作者の複雑な思いが滲み出ているように感じられます。
同様に、19日にふたご座から数えて「受け継がれていくべき記憶」を意味する12番目のおうし座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、ふとした拍子にのっぺりとした“平和”や何事もないよう塗りつぶされた“事実”の表皮が、べろりと剥がれ落ちていくことになるかもしれません。
命がけで突っ立った死体
この言葉は1960年代から80年代にかけて活動した暗黒舞踏の旗手である土方巽の、「舞踏とは何か?」というテーゼへの答えとして知られている有名な言葉です。
しかし、これは矛盾した不思議な言い方でもあり、普通に考えれば命を失った死体は命をかけることはできません。命がけで生きることはできるけれど、死体である以上いのちはかけれない。不可能なんです。
つまり、これは答えとしてすんなり受けとられて終わるような答えではなく、それ自体が屈折し矛盾した問いかけなのであり、それを通して今まで身体というものを自分たちがどういう風な見方で切り取ってきたのかを訴えかける試金石でもありました。
ラジオ体操や学校の体育教育で一定の規格を与えられた身体、西洋医学的に定義された健康をつねに基準にしている身体、あるいは、そういう通常の生存スケールで切り分けてきた身体ではない、異相や異界を孕んだ深層的な身体性。
土方巽は、おまえは馬だとか、おまえは奴隷であるとか、次から次へと言葉で誘導し撹乱していくことで既存の身体位相を壊し、変容させるということをやっていった訳ですが、そうした根源的な問いかけあって、その派生として踊りが生まれていったのです。
その意味で今週のふたご座もまた、すっかり社会に飼い馴らされて回収されてしまった問いかけを再燃させていくべし。
ふたご座の今週のキーワード
会いに行ける問いかけとしての夏の象