ふたご座
いざ遊ばれる自分かな
文学の役割
今週のふたご座は、『蠅とんでくるや箪笥の角よけて』(京極紀陽)という句のごとし。あるいは、みずからの思いを託すことのできる“声”を見つけていこうとするような星回り。
「蠅(はえ)」は夏の季語。不潔でうるさいイメージが先行するためか、どこにいっても嫌われ者になりがちな存在ですが、作者はむしろ「箪笥(たんす)の角」というモノを巧みに介することで、そのたくましい生命力にあっけらかんと驚嘆の言葉を送っています。
というより、作者によって構成されたコマ割と「びゅん!」という吹き出しの効果によって、掲句では「蠅」がまるでバックスバニーのようなカトゥーンアニメの主人公のようなコミカルささえ醸し出しています。
普通ならなんていうことはない存在として無視されたり、煙たがられたりしがちなかそけき存在たちに、こうして焦点をあて、ものを語らせ、意味のある動きを与えていくのも、俳句や小説をはじめとした文学のささやかだけれど大きな役割なのだと言えるでしょう。
そうやってかそけき声に人には言えないみずからの本音やこの世界の“感じ”を託しながら、昔から私たちはギリギリのところで生き永らえてきたのです。
同様に、5月9日にふたご座から数えて「サバイバル」を意味する3番目のしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、他ならぬ自分自身のためにかそけき声やかすかな存在を拾い上げてみるといいでしょう。
真の友愛
人間にとって猫の存在も、掲句の「蠅」に近いかも知れません。例えば、夏目漱石の『吾輩は猫である』の「吾輩は猫である。名前はまだない。」という書き出しは日本人ならほとんど知らない人がいないくらい有名なフレーズですが、猫の飄々とした風情が端的によく現れているように思います。
そしてこれは実際に猫を飼ったことのある人になら同意してもらえると思うのですが、猫と戯れていると、しばしば猫の方こそが人間を相手に暇つぶしをしているのではないかという気がして来ます。それは確かに奇妙な気分ではあるのですが、同時に重たい何かから解放されたような、ホッとさせられるひと時でもあるのです。
そんな時に思い出すのが、モンテーニュの『エセー』に出てくる、「真の友愛においては、私は友を自分の方に引き寄せるよりも、むしろ自分を友に与える」という一節。
おそらく、そうした友愛がどうして成り立ち得るのかと聞かれても、モンテーニュは「それは彼が彼であったから」であり、「私が私だったから」と答えるしかないでしょう。同様に、今週のふたご座もまた、自分以外の何か誰かに自分を与え、遊ばれることを自分に許していくような感覚を抱いていきやすいはず。
ふたご座の今週のキーワード
だれにならあそばれたいか?