ふたご座
交通路になっていく
手を引いたり引かれたり
今週のふたご座は、全身の感受性を開いて街をさまよい歩く<遊歩者>のごとし。あるいは、自分自身を、他に行く場所がない者たちの交通路にしていくような星回り。
ヴァルター・ベンヤミンは近代と都市を読み解くための重要なキーワードとして「遊歩者(フラヌール)」という言葉をとりあげ、疎外された「よそ者」であるがゆえに気ままで、いわゆる富裕層でも貧困層でもなくそれらの中間にあり、消費社会の一員であることを自覚しつつ同時にそこからの脱出口を探っている存在として描いてみせました。
たとえば、
「森の中を迷い歩くように都市の中を迷い歩くには、修練が要る。迷い歩くひとには、さまざまな街路の名が、乾いた小枝が折れてポキッと音を立てるように語りかけてこなくてはならない」(『ベルリンの幼年時代』)
というくだりなどを読んでいると、ふだん見慣れているはずの街や駅までの道まで、どこか異国の神話的迷宮のように見えてきます。
実際に私たちは、日頃からどこかへ自由に出かけて自在に風景を変えているようでいて、その実同じ場所をグルグル回っているだけなのかもしれません。
だから、「なんなんだここは」と眩暈でクラクラしながらも、鼻をきかせて抜け道を探ったり、誰もいない真夜中にさっと渡り歩いていけるようになった時、すでにその人は「遊歩者」である。
その意味で今週は、自身が迷路を抜けていこうとするだけでなく、自然と道に迷っている他の誰かの手をも引いていくことになるでしょう。
逆ナン上等
そういえば、いま話題の『万葉集』でも日本式に男が女のもとに通う歌がほとんどなのですが、いつの時代のどんな社会にも例外というものはあるもので、「天の川棚橋渡せ織女のい渡らさむに棚橋渡せ」(万葉集巻十)なんて歌もあったりします。
七夕の夜と言えば、日本ではもっぱら彦星の方が織姫と遭いに天の川を舟で漕いで渡っていく光景をイメージする人がほとんどだと思いますが、じつは中国の詩などではむしろ織姫が彦星に逢いにいくものと決まっており、上の歌も中国式に女性側が川に板を渡して、いざ渡ってやろうという内容になっています。
例外となることを恐れない「遊歩者」たるもの、逆ナンくらい、むしろ心臓を高鳴らせるためのひとつの手段くらいに捉えていくノリも、今週は必要になってくるかもしれません。
今週のキーワード
神話的迷宮感覚